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"正解"についての考察

ある友人の話だ。私はこの友人に強烈な違和感を覚えている。

彼は私と地元が同じで田舎出身だ。彼の高校時代は自分の身なりに無頓着で髪の毛はボサボサ、服はジャージ一択であった。
彼は大学進学を機に上京した。上京後は服に興味を持ち始め、オシャレに気を使うようになった。それはとても良いことだと思う。

彼は高校時代の友人のインスタグラムを見ては、自分より劣っていると思う点を私に言ってくる。人の粗探しをしている自覚はないのだろうが、聞いていて気持ちの良いものではない。彼には自分の中に確固たる"正解"があるのだろう。彼のその”正解”から少しでもズレたらそれは全て”不正解”であり、否定に値するのだろう。

自分の中の正解は誰もが持っているものだろう。それは当たり前だ。自分よりも偏差値が低い大学に行っている同級生のことを下に見て、その人の人生がもう終わっているかのような表現をして哀れんでいる彼。就職先で高いランチを食べることに目覚めたのか、味もわからないのに高いレストランにしか行かなくなった彼。(これは単に私が歪んでおり、僻んでいるに過ぎないのかもしれないが)
自分が全て正しくて、その採点基準より一点でも下回った人たちは全員劣っているとみなす。傲慢極まりないし、これを人に押し付ける、そう考えることが当然のように思って疑わないことが私には到底理解できないのだ。

私は人のことが言えるだろうか。自分より努力していない人を見下してはいないだろうか。人には人それぞれの価値観があって、頑張るタイミングやお金をかける場所、良いと思う基準は人それぞれだということを、忘れてはいないだろうか。
私はそういったまともな人間として持っていないといけない判断基準や、人と対等に接するために持ってはならない感情をきちんと把握しきれているだろうか。

人のことを否定し続けることは、疲れてしまうのではないか?自分より上だと思う者に媚び、その人たちに認められようと必死になる。それは本当に自分のやりたいことなのか。私にはわからない。しかし、それで本当に気持ち良くなれるのであれば、大変生きにくいのだろうと推察する。

こんなことをつらつらと綴っている私もとても嫌なやつだと思った方もいるかもしれない。私は私のことがなんなのかわからなくなることもある。しかし、こうして自分のことを考え、文字に起こすことで自分が抱える普段の違和感を昇華できているのである。


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