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『それでも僕はここで生きる』#3 其の女

 3.其の女 
 「あら偶然ね」仕事帰りの僕に女が話しかけてきた。あの女かと思い、返事をしようと顔を上げた。すると、目の前にいたのはあの日喫茶店で出逢った女とは別の女が立っていた。僕はかなり驚いた。僕の人生の中で、こんな短い期間のうちに二人の女に話しかけられたことなどなかったからだ。僕はその女を見なかったふりをして立ち去った。
昔からそうなのだ。僕は都合の悪いことは無視をしてきた。それは人なら誰でもしていることだ。
「あんた、臆病ね」女はそう呟いた。僕は無視して歩き続ける。意味がよくわからなかった。無意識に歩幅が広くなる。女は平然とついてくる。今日はうちへ帰ろう。僕はそう思い、足を早めた。女も合わせるように歩調を早めた。 
「僕に何かついているのかい?」とっさに出てきた言葉がこれだった。見ず知らずの女を振り払うのには全くといっていいほどに効果のなさそうな言葉だ。女は少し間をおいて 
「私がついてきちゃ迷惑?」
そう言った。僕は正直困惑した。実際のところ、僕はこんな状況に陥ったことはなかったし、多分、八王子の老人に聞いても、カンボジアの少女に聞いても、ヤルタ島の漁師に聞いても、一人いるかいないかだと思う。
「そういうわけではない」僕はこう答えていた。彼女は僕の家に上がりたがった。僕は拒んだ。しかし、もう遅かった。女は僕の家を知ってしまったのだから。というより、彼女の足取りを見ると、すでに僕の家を知っているようだった。
僕は女を家に入れた。女は家に入ると僕を座らせ、彼女も隣に座った。あまりにも自然すぎて、僕は違和感を覚えることもなかった。僕は何も考えられなかった。ただ、黙って座ることしか。何かを考えるには疲れすぎていたのかもしれない。ここのところ、いささか身の回りに不思議なことが立て続けに起こっている。
沈黙を破ったのは女だった。僕であるはずはないのは明らかなのだが。
「私と結婚してくれない?」
「婚約者がいるので」とっさに僕は答えていた。あの女と交わした会話を思い出したのだ。
「そう」女は少し寂しそうな声で言った。僕は黙って頷いた。
そうすることしかできなかった。
その返事は嘘であるかといえば嘘であるし、本当かといえば本当ですらあったからである。僕はその女に嘘はついていない。
僕は女を悲しませてしまったかもしれない。深い沈黙が形を取り、部屋を埋め尽くしてしまったように、息苦しかった。 
「すみません」僕は言った。何に対していったのか自分でもわかっていなかった。
女は無言だった。僕は沈黙に埋め尽くされた部屋に慣れてきたみたいだった。
「正直なのね、あなたは」女はいった。
その言葉は一旦僕の耳を経由した後、沈黙に葬られていった。
部屋はカーテンが閉まっていた。カーテンの隙間から差し込む夕日のオレンジが彼女の横顔を照らして眩しかった。 
彼女は立ち上がり、何も言わずに去った。僕は女を追うことはしなかった。そうしないほうがいい。と本能が思わせていた。去るものを無理に負うことはしないほうが良い。この混沌とした人生を生き抜く上での知恵だ。
辺りが暗くなり、彼女の去った部屋で、僕は一人座っていた。まだ彼女の吐息が聞こえてきそうなくらい、静かだった。

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