1000年前に命を燃やした男たち 遣唐使・遣隋使
遣唐使! 遣隋使!
命をかけて◯◯を成し遂げた!
と聞くとズキューンとくるたちです。
いつの時代も、その時代を牽引する誰かがいて、努力があって奮闘があって功績があるものですが、とうぜん歴史に残らない人々もいます。
聖徳太子様の時代~奈良時代、平安時代初期に派遣された『遣隋使』『遣唐使』たちもその一群ではないでしょうか。
遣隋使は「隋」の国へ送られた人々。
遣唐使は「唐」の国へ送られた人々をいいます。
遣隋使・遣唐使は、古代船に若者を乗せて中国へ派遣し、20年弱という長い期間勉強してもらって、体当たりで文物を学ぶという留学生のことです。
一度にだいたい4隻の船を仕立て、何百人もの人を乗せて出発しました。
その多くが無名の人々です。
もちろん、彼らのもたらしたものは、その後日本の政策に取り入れられて歴史に残っています。
結局帰れなかった阿倍仲麻呂や、後世名前が発掘された井真成(いのまなり)のように、存在が意識される人もいます。
しかし、存在すら記憶されず消えていった数多くの人がいます。
もちろん『遣隋使』『遣唐使』のような「役目」を認識されもせず歴史に沈んでいった人々もいることでしょう。
歴史の多くは無名の人々の集積によってできている…と思うと、どれもこれも手厚く語りたいのですが、なかなか難しいものです。
遣唐使たちのレリーフ
私は奈良県に住んでいまして、大和八木という場所があります。
駅前にロータリーが広がっているのですが、ここに立体駐車場があり、壁画があります。
私が小学生くらいからあったので、もう30年以上(きっとそれ以上)この立体駐車場を飾っているのでしょう。
見上げるたびに「巨大や…」「なんかよくわからないけどすごい」と思っていました。
大人になった今も「まだこれがある」と思いながら見てて、やっとわかったのです。
「これ、遣唐使(遣隋使)の絵だ」
なにか船に乗ってるし、船がえらい原始的だし、いかにも「人力で動いていた古代の船」という感じなのですが、注目したいのは上の部分。
青で矢印を書いてみたのですが、線が引かれているのがお分かりでしょうか。
右の方に日本列島があり、真ん中に朝鮮半島があり、左に中国大陸の地図があり、線がある。
この線はおそらく航路です。
遣唐使の船がたどった航路が描かれているのです。
地獄の門 東シナ海で命を燃やす
遣唐使の度は過酷だったといいます。
4隻の船を仕立てて行ったと書きましたが、無事に着ける保証もなく、もちろん帰路も危険を伴います。
作家、井上靖先生の名作『天平の甍』では、中国で何十年も写経に励み、写せるだけのお経を写して日本に持ち帰ろうとしたものの、帰りの船が沈んでしまい、努力が水の泡となった人物が描かれています。
当時の東シナ海は地獄の門と呼ばれ、あの鑑真和上が来日まで何度も失敗したことも有名です。
ただ、この航路はひとつではないのです。
地図をよく見ていただくと、朝鮮半島に沿って進むルートと、東シナ海をつっきるルートとあることがわかります。
おそらく最初は半島に寄り添いながら進んでいたのでしょう。
こうすれば進むべき方向もわかりやすいですし、なにかあったら助けを求めやすい。
しかし途中から突っ切るルートを走り始めるのです。
日本と朝鮮半島の外交問題が悪化し、半島を沿う道を使わせてもらえなくなった…という説明もありますが、日本人はあえて、つっきったのだ、という意見もあります。
理由は早いから。
遣唐使の派遣が進むにつれて、その重要性は増し、さらに多くの人々を送り込みもっと多くの知識を得たいと望むようになりました。
その結果、船に積み込むべき食料や水の消費が多くなります。
少しでも多くの人を乗せるには、行程を短くして必要な水や食料を少なくするというのが、求められたというのです。
かくして、4隻中2隻は沈むという過酷な旅が始まりました。
死ぬくらいなら、人を少なくして半島沿いにゆっくり行ったらいいんじゃね?
と思うのは、命大事モード前回の現代人だからでしょうか。
古代の人はそうはしなかったのです。
少しでも早く、多く吸収したかった。
そしてそれを日本の政策に生かしたかった。
自分の国のために、働きたかった。
子供の頃、わけがわからないなりに迫力を感じたあの絵は、とんでもないエネルギーを秘めていたのです。
巻頭イラストはnoneさんのものを拝借しました。
ありがとうございました。
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