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江國香織『神様のボート』を読んで

「パパの仕事の都合で、また引っ越すよ」

「なんで!」「いやだ!」と泣いて駄々をこねる9歳の女の子。

父親は困り果て、「そんなに騒ぐならそこから落っことすぞ」と言って女の子を抱え、住んでいた社宅の三階の窓から本当に放り投げようとしました。

どうしようもないと、わかっていました。

「転校したくない……」

メソメソと泣いていた、幼いころの自分を思い出しました。

あらすじ

昔、ママは、骨ごと溶けるような恋をして、その結果あたしが生まれた。"私の宝物は三つ。ピアノ。あのひと。そしてあなたよ草子"。必ず戻るといって消えたパパを待って、ママとあたしは引っ越しを繰り返す。"私はあのひとのいない場所にはなじむわけにはいかないの" "神様のボートにのってしまったから"ーー恋愛の静かな狂気に囚われた母葉子と、その傍らで成長していく娘草子の遥かな旅の物語。

よみがえった転校のトラウマ

人間関係のリセット。

転校するとこれが起こります。

私は、愛知県から兵庫県に、兵庫県から埼玉県に、たった二回、転校しただけでしたが、それでもきつかったです。

見知らぬ土地。慣れない言葉。勝手のわからぬ校内。

誰ひとり知らないクラスメイトたち。

だけどみんなは幼稚園のころから知り合い。

仲間外れだ。

生活の至るところで、自分がよそ者だと実感させられる。

あれ?こっちでは「ぐっとっぱ!」って言うの?

「ぐっとっぱーで、わーかれよ!」じゃないの?

私だけタイミングずれちゃった。気まずい。

小さな小さな文化のズレが、積み重なってストレスになりました。

私は要領が悪くて、どんくさくて、面白みもなくて、注目の的にふさわしい転校生ではありませんでした。

作中の娘・草子は、転校を繰り返す生活の中、とてもうまくやっているように見えます。

母・葉子は、いつまた引っ越すと言い出すかわかりません。

そんな不安定な日々の中、その土地その土地に順応していく草子を見て、羨ましさすら感じました。

同時に、悲しさも。

葉子の問いかけに、多くを語ることなく「べつに」と応える草子の姿に、切なくなりました。

子どもらしく「いやだ」とじたばた暴れてみてもいいのに。

恋に盲目な、理解しがたい母親への困惑

葉子と草子は、仲の良い親子です。

しかし葉子は、草子の父親に関して盲目的すぎるのです。

転校して友だちと離れること。

どの土地にも馴染めないまま旅がらすを続けること。

草子にとって負担に違いないし、それはわかっているのに、それでも、神様のボートに乗り、草子を連れて引っ越しを繰り返す葉子。

同じ母親として、正直、理解できないなぁと思いながら読み進めました。

きっと、私自身が転校で嫌な思いばかりしてきて、草子に感情移入しているから、なおさらなのでしょう。

9歳のころ引っ越しがいやで駄々をこねていた私は、22歳になっても、就活で転勤がない仕事を探していました。

将来自分の子どもに、人間関係のリセットや、慣れない環境への適応を強制する、「転校」という負担をかけたくないからです。

まだ結婚相手もいないのに、将来の結婚相手が転勤族の可能性もあるのに、子どもを授かれるかもわからないのに、それでも私は、引越しをせずに済む未来を掴み取ろうとしていました。

9歳のころの記憶がリアルによみがえります。

仲良しの友だち。

自転車の練習をした、バラが咲いている公園。

お気に入りの雑貨屋さん。

中庭にひょうたん型の池がある小学校。

キラキラ光る神戸屋のレストラン。

サッカーが上手だった田中君。

ずっとここでみんなと、大きくなるまで一緒にいるんだと思っていたのに。

なんでパパは私の気持ちを分かってくれないんだろう。

引っ越しを告げられ、窓から投げ捨てられそうになった日のことを、強烈に覚えています。

ほんとうは、「転勤族だと妻や子どもたちに負担をかける」という想いから、父は今回を最後の引っ越しと決め、転勤のない会社へ転職したのでした。

そんな事情を知らず駄々をこねていた自分が、いまでも少し気の毒です。

同時に、親となったいまは、家族のために転職を決め断腸の思いで引っ越しを告げたら、聞き分けの悪い娘が泣いて暴れて、困ってしまった父の気持ちも、分かるような気がするのです。

親子の形は親子の数だけ 愛の形は人それぞれ

父と私には、父と私の親子の形があるように、葉子と草子には、葉子と草子の親子の形があります。

私からしたら、自分を窓から放り投げようとした父よりも、草子の気持ちを顧みずに愛する男への想いを優先させて引っ越しを繰り返す葉子のほうがひどい親だと感じますが、

ほかの人から見れば、引っ越しが嫌だと泣く娘を黙らせるために3階から落とそうとする父のほうが、ひどい親にうつるのかもしれません。

自分の子どもに幸せになってほしいという気持ちは、どの親も持っているはず。(例外もあるかもしれませんが、追求すると悲しくなるので言及しません)

母・葉子は、自由で、明朗で、娘・草子の健やかな成長を願い、娘との日々を大切に過ごしている母親だということに、違いありません。

そして母に振り回されながらも、これからの人生を、自分の足で歩んでゆくのだと決心し、成長する草子。

たとえ母の元を離れることになったとしても、ふたりで貝殻を拾いながら海辺を散歩したことや、いっしょにピアノを弾いたこと、おかえりの挨拶で必ず抱きしめ合っていたこと、

きっと、娘・草子が自分の人生を漕ぎ出すとき、ボートの礎になるでしょう。

子どもが寄せる無条件の信頼に、親はかまけてはいけない

もう少しだけ、私自身の話をしてみます。

引っ越しがいやだと泣き喚いたら父に窓から放り投げられそうになった9歳の私でしたが、たしか、びっくりして泣き止んだような気がします。

これはもう、何を言ってもだめだ。

決まったことなんだ。

幼心に、どんなに泣いて暴れても、もう無駄だとわかりました。

子どもとは健気なものです。

いま思うとなかなかに乱暴な納得のさせ方でしたが、私は父のことを嫌いになることも、怖がることもなく、ずっと好きなままでした。(いまも好きですよ)

草子は、何度引っ越しをさせられたって、私は、窓から落とされそうになったって、子どもは親のことが好きなのです。

これは、親子の絆、なんていう素敵な言葉だけで片付けられる話じゃなくて、恐ろしいことでもあるよなぁと、考え込んでしまいました。

(「子どもはみんな無条件で親のことが好き」については、家庭環境によるところもあり、これまた議論を呼ぶ問題であり、深掘りすると悲しくなってくるので、これ以上の言及を避けます)

子どもの世界は、学校に行きはじめても、まだまだ狭いものでしょう。

お父さんとお母さんがすべての価値基準になってしまいかねないのです。恐ろしいことです。

親の接し方次第で、すぐに共依存の泥沼状態にだってなりえます。

親子関係とは利害を超越した特殊な関係性であり、子どもが親に全幅の信頼を寄せてくる無垢な気持ちを悪用するようなことは、絶対にしてはならないと、改めて肝に銘じました。

私には一歳半の息子がいます。

まだまだほぼ赤ちゃんみたいな子どもで、お世話や手助けが必要な段階ですが、彼もじきに自分でなんでもできるようになります。

親として、適度な距離感を保って接していこうと思います。

うまくまとめられず、数年後の自分に期待

今回、『神様のボート』を読み終えてからこの読書感想文を書き終えるまでに、2週間ほどの長い時間を要しました。

子どものころのトラウマが鮮明によみがえり、親としての自分について深く考えを巡らせたら暗い闇の底に落ちてゆき、最終的にはちんぷんかんぷんになりました。

『神様のボート』自体は素晴らしい作品で、読後はパッキリした気持ちだったにも関わらず。

26歳、そしてママ歴1年半の私では、この本と向き合うにあたってこれが限界だったのかもしれない。

数年後、もう一度この本を読んだとき、未来の私はきっと全然違った感情になることでしょう。

そして、26歳の私がどんな考えを持ったのか、興味深くこのnoteを読んでくれることでしょう。

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