居常

代謝するように黒々とした内容物を吐き出す、意味も無く溜まる負が、胃を逆流し始めるときに、noteを書くか、酒を飲むか、意味もなく食べるか。もうちょっと選択肢があればよかったのだが。インスタント快楽しか摂取できないような、いたたまれなさ、眠い。座り込んでしまうと疲れが出て立ち上がれない。様々な褒め言葉が頭の中を閃いて言葉が出てこない。やはり誰かにわかってもらおうとしたり、意味を持ち出そうとすると、一瞬よくても、しがらみにしかならないのかもしれない。意味のなさを積み上げなければならない。他方意味を持たせようとしなければ構成がゴミになる。まあ、ゴミ箱だしな。価値のあるものが捨ててあるかどうかは、漁らないとわかんない。
捨てちゃダメだよこんなの、ってのが発掘されるかどうか。それはそいつが大事に持っていればいい、俺にとっては等しくゴミだ。どんな魅力の姿をしたものでも、それに見合った強引な理由付けで、ゴミに見える。見えなければならない。
活動をすると、少しの思考の転換先で、トリガーが引かれて、考えねばならないことがざっと流れ込んできて、一気に鬱になる。考えないように、考えないように、考えないようにしているから人並みって基準にしがみついて生活できる。やっぱ考えないって幸せじゃん。忘却は祝福じゃん。何やってんの。祝福放り投げてさ。



いい文章書きすぎてさ、のちのちがプレッシャーになるような気分を、いつも大なり小なり繰り返してるんだよね。もうやんなっちゃうよね、これまでの、今までの、昨日までの、6時間前までの積み上げ、さっき昼ごはんのスプーンをくわえながらのんびり綴っていた虚無の姿は、今見るとまるで信じられない、ちゃんと実存を持っていて、鈍く重く輝いている。実存って単語の使われ方がよくわかってないけど、わかってないのに、いくつかの例から文脈いい感じにすげかえて意味が通るようになっちゃえば勝ちなのが、つまり言葉ってやつで、中身がなくても知ったかぶりの誤魔化しが効く、それが言葉ってやつで、そんな下賎な言葉ってやつに依存してる俺の実存もまた、嘘で脚色で誤魔化しの虚無ってこと。
なんで書くこと尽きないんだろうね。中身を書こうとしてないからか。周辺の嘘をいくら脚色しても尽きることはないどころか、塗り固まって強固になってく、雪がこんこんとやまぬ日に作ったかまくらみたいだ。やまないから勝手に上に積もった雪が、厚みを増して、しかもいつしか表面を綺麗にふわふわに覆ってくれる。ところで俺は関東圏だが、昔、珍しく雪が幸福なほど降った日、ひとりで、帰宅してくる近所の人に挨拶しながら、えっさほいさとかまくらを作って中に入って写真を撮ったことがある。寒くなかった。嘘と脚色の中は寒くないのかもしれない。
文章の具体性の上手さについて自覚させられてしまったから、自覚存分にまみれて書いてみようと思う。自分のユーモアに酔っている文章は、いやらしくて滑ってるかもしれない、どうせゴミだからいっか。ベッド横にゴミ箱をひとつ置いておくと便利で良い、何気なくベッドの上で鼻をかんだり、キットカットを何枚も止まらないまま食べたり、そういう無為な感情の最終結果みたいなゴミをノーモーションで無関心の領域に落とせる。そんな空想をしながらも鼻が痛い。だって6kmの片道を自転車で往復してんだよ、この冬の凍てついた空気の中、頭に血が上って脳がぐわぐわと圧迫される。胴体はしっかりと暖かいのに、小指や、つま先や、耳や、鼻や、頭の上の方は、いろんな感覚で潰されそうだったり破裂しそうだったり忙しい。疲れすぎて無感動に、無感情に漕ごうとして、視線の先には直線上に並んだ無数のボルボックスが光っていて、もうそれ以外見えない。
風邪っぽいから、帰ったらトマトを食べねばならないという強迫観念に連れられて、もう漕ぎたくないのによくわからない力が出てきて曲がり角を違う方に曲がってスーパーに寄ってる。だってもう書かねば気が済まないからスーパーの外のベンチで書いてる。この寒いのに。創作意欲ってやつですかね。柚子味のインスタントラーメンに、鶏肉とトマトと卵でも入れようかな。美味しそう。
冬は、温かいものしか食べたくない。と言おうと思ったけど、そんな余裕さえなくグラノーラとかカロリーメイトしか食べてない日もよくある。即時性。火にかけて待つことすら、億劫でできない時もしばしばだから。
いつも俺は健常者ですみたいな顔して生きている(と信じたい)のに、全然そんなことなくて、全く情けなくって、周囲の人間に顔向けできない。
今また、いろんなことを、なんだかんだ言葉になってないところで無数に瞬間的に考えた。結果笑ってる。最近いつも笑ってるけど、やっぱそーいう気力があるんだからなんだかんだ大丈夫だと思う。いろんな“サバイバー”の友人達の記憶をたぐり、あいつらに悲壮感などなかったと、たまにあったけれど、少なくとも俺の同情を必要としてはいなかったと、敬意と心強さとともに思い出して笑っている。
辛い苦しいっていうか、あえてそうだと感じてはいない。そうだったら苦しすぎる。そうだったらもうずっと前に根を上げている。順応してしまった、当たり前に隣にいる。酒を買うのも、飲むのも、いつしかなんの躊躇いもなく、未成年だということも忘れていて、二十歳になった今になって、もう合法なんだ、確認されてもいいんだと思い至るたびに新鮮で面白い気持ちになる。



スーパーから帰ってきてコートも脱がぬまま(寒い)、ラーメンにごたごたと具材を入れて、タイマーもかけず適当に煮込んで、冷凍ささみに一番火が通るように具材の位置を調節しながら、完成してnoteを再び開く頃には22:24で、その呆れざるを得なさというか、ため息加減というか、誰かが言ってたのは、
「その日常、思えば平凡、書けば文学。」
「その不満、言えば愚痴、書けば文学。」
んなこと言ったって時間が無駄に過ぎていると感じていることに全く変わりはないわけで、そうだ、時間を無駄にするなと、いつも心の底のどこかから確かに声がして、本は読めぬわ、絵は描けぬわ、挙げ句の果てには授業をさぼってる人間にまで劣等感を抱いて、「授業をさぼってまでやりたいことがある人間になれ」などとほざく。馬鹿なんじゃないの?思わず眉間を押さえる。頭の固い教授を相手にいろいろ考えて結局何も言えないときの気分になる。相手にしたことないけど。自分の中だけで何を悶着起こしてるんだか。一人芝居で嫌んなる。自覚してるからといって治るもんじゃないんだから困りもので、只本当に困って、呆れ果てて、無意味に感情が余ったから、仕方なく余ったトマトに齧り付いている。スマホを片手に油断してたら果汁が垂れて、慌てて上を向いて口を拭う。




美味しいお酒でも飲みます。