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今じゃない! なんて、自分勝手な考えだけど

ついに出たコロナ陽性

うちの学校でも、ついにコロナが本領発揮。いわゆるクラスター状態。蔓延防止対策条例の解除目前で、学級閉鎖である。自分だって保菌している可能性大。近々の予定を全てキャンセルし、家でおとなしく過ごしている。自分のちょっとしたくしゃみにも、「大丈夫かな?」と不安になる。

時間が惜しい

あとちょうど10日でこの町を離れる。会ってお礼を伝えたい人、最後に会いたいと言ってくれる人、引き継ぎをしたい人、名残を惜しみあいたい人、毎日のように大事な予定を入れていた。私もこの期間は片付けよりも人と会うことを優先しようと決めており、かなり綿密に片付け計画を実践してきた。が、とりあえず人と会う予定をキャンセル。仕方ないのはわかっている。誰のせいでもない。苦渋の選択である。一番は決め難いが、やはり生徒(特に部活の生徒)とこのまま会えずに異動になるかもしれないことが、気に掛かる。大人なら、本気で会おうと思えば車を飛ばせばいいし、お金をかければどうにかなる。気持ちの面でも、事情を理解し、折り合いをつけることができる精神がある。でも、子供はそうはいかない。ちゃんと「お別れ」ができなければ、きっと今後に支障をきたしてしまうだろうし、切り替えが大人ほど上手じゃない。自宅待機期間的に、離任式にも出られない生徒たち。一番伝えたいことがある人たちに会えない。なんてこった。こんな予定じゃなかった。

自分の認識の甘さ

いつコロナが学校で流行るかは時間の問題だった。そう、わかっていたつもりだった。自分がかかってもおかしくないことも。なのに、これだ。想像を遥かにこえる学校現場の騒々しさと疲労感(私はさして役に立てなかったが、空気感だけでも気持ち的には疲労する。最前線の先生方には頭が上がらない。)。納得したつもりでも、落胆と諦め難い自分の気持ちを引きずってしまう。「今じゃないんだよ」なんて、自己中な思いさえ抱いてしまう。いつが良いなんてないのに。わかっていた「つもり」だった、ちょっと前の自分に腹が立つ。全然わかってないよ、私。

本気の想像

生徒たちには「想像できる人に」と、何度言ってきたことだろう。何度、学級通信に書いてきたことだろう。この2年間、ずっと日本中いや、世界中がコロナで脅かされ、毎日のようにニュースで取り上げられていた。コロナによって命を落としてしまった方の遺族、会いたい人に会えない辛さ、思わぬ後遺症に苦しむ人、疑心暗鬼になってしまう世の中や子供たちの心の疲弊•••ある程度、当事者としてもわかったつもりになっていた。2年間実家に帰らなかったのは持病のある母を思ってだったし、子供たちの心の疲弊は目の当たりにしていた。でも、いざ、学校でクラスターが起き、こうなったときのことやその後の二次被害を「本気で」想像できていなかったんだと思い知る。ここまでなんとなく何事もなかったから、なんとなく、このまま終わるだろうとたかを括っていたのだ。本当に恥ずかしい限りである。コロナが蔓延してから、たくさんの人がこうやって会いたい人に会えない悲しみ、別れの前に大事な時間を過ごせない辛さを味わってきたんだなと、今更想像ができる。もっといえば、会えないくらい大きな問題ではない。幸いにも、うちの学校関係者は重症化はしていない。きちんと療養すれば、しっかり元気になって戻って来られるのだから。命があることが第一だし、最前線で対応してくれている人たちへの感謝の気持ちがまず先だろう。ここにきてようやく、少しだけまともな想像力を働かせることができている。

今を大切に

健康であることに、感謝を忘れてはいけない。そして、顔を合わせて話せることも、当たり前すぎて忘れてしまうけれど、すごく幸せなことである。意図せず当たり前がなくなってしまうことが一番つらい。感謝であれ謝罪であれ、喧嘩であれ、告白であれ、伝えられる時がBestタイミングなんだと思う。「後で」が来ないこともあるのだ。この3月の無くしてしまった時間の記憶は、きっと私の中で残る。大事にしようと思っていた時間だったのだから。でも、本当に大事なのは、日々の積み重ねと、本気の想像なのだ。


追伸 

思っていたよりnoteを続けられそうな予感。クラス担任を終え、学級通信を書くことがなくなった私にとって、「何を書こうかな」「書き残しておきたいことは何かな」の良い出口になっている気がする。


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