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拉麺ポテチ都知事8「10歳で中二病」

先日『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観た。見届ける気持ちで足を運んだのだが、何とも言えない感動を覚える。あの作品が幕を閉じるということがどれだけ価値あることか。今作は世界中の碇シンジ君にとってイニシエーションとなるかもしれない。

安心してほしい、以下ネタバレなしで進行する。というか『シン・エヴァ』の感想は一切書かない。

私は幼少期に毎年公開される平成『ゴジラ』シリーズに胸を躍らせていた。毎作エンドロールの後に次回作の予告編が流れるのだが、この映像だけでワクワクが1年間保てた。今時のコンテンツでは持続したとして1カ月くらいだろう。これも考える価値のあるトピックであるのだが、ここでは触れない。

次にやられたのは『新世紀エヴァンゲリオン』旧劇場版の予告編だった。

テレビの前で呆然としたことは忘れない。意味はよく分からなかったと思う。むしろ意味なんてどうでもよかった。こんな狂気に田舎のガキがアクセスすることなんて当時そうそうなく、触れられただけでも価値がある。

映画を地元の山梨・甲府で観た時、周りは高校生以上の先輩ばかりだった。間違いなく最年少で自分がそこにいることがどこか誇らしかったのを覚えている。映画館で次作に続くと分かりモヤモヤするという経験も初めてだった。衝撃がすごすぎて、それから何かを夢想する時はゴジラではなく、エヴァのことを考える様になった。

一番影響を受けたのは言語感覚。「決戦、第三新東京市」「男の戦い」「瞬間、心、重ねて」「暴走」「汎用ヒト型決戦兵器」「強羅絶対防衛線」「A.T.フィールド」「アンビリカブル・ケーブル」「プログレッシブ・ナイフ」こういった言葉に私は強く惹かれた。まだインターネットが浸透していなかったため、考察は胡散臭い書籍を漁った。

気づけば私は10歳にして中二病を発症していたのである。

エヴァに搭乗できるパイロットは全員14歳、あの物語は中学2年生が主人公の物語である。“11歳でドストエフスキー/15歳でエヴァンゲリオン”は菊地成孔 feat.岩澤瞳「普通の恋」のリリックだが、今は亡き「フォーエヴァー21(私的解釈によれば永遠の大学3年生)」と同じく絶妙なイメージを喚起させてくれる。

良くも悪くも15歳を越えれば中二病はサウダーヂや退行でしかない。しかし10歳で発症した自分にとってはキラキラと輝く、大人になれる病。“10歳でエヴァンゲリオン”、それは進歩であった。

ずっと大人になりたいと思って生きている。ジャズが好きになったのもそうだ。ロックから椎名林檎やthe band apartを経て「大人でお洒落な音楽」という安直なイメージのもと、ジャズ以降のブラックミュージックという広大な鉱脈にたどり着いた。だから正直チャーリー・パーカーの幾何学的でスポーティなサキソフォンには戸惑いを覚えたこともある。

私が目指している音楽はいつでも「大人でお洒落な音楽」なのだ。それは和声のなかにも、リズムのなかにも、メロディのなかにも、リリックのなかにも、そして装いやアティチュードのなかにも見出すことができる、説明し尽せない何か。それは例えば宇野千代が「取り繕わないこと」だとした「シック」の感覚でもある。

この「大人」や「お洒落」という、定義が曖昧で時代によって変容する概念をずっと追いかけ続けているのは、あの未来志向としての中二病が影響しているのかもしれない。

「14歳になれば自分もエヴァのパイロットとして迎えが来るかもしれない」と期待していたが、結局それは起こらなかった。あれには本当にがっかりした。それ以来、私の中二病はブルースに変わった。先輩であったシンジやアスカ、レイたちを横目に自分自身は年齢を重ねていく。憂いながら、病はだんだんと冷めていくのだった。

それは悪いことではない。エヴァに出会って大人になれたのは事実だ。あの予告編が私をここまで連れてきてくれたと信じている。ありがとう、エヴァンゲリオン。


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