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友人と話していて感じた事

昨日友人と話していた。

ちょっとした興味があって教えてもらいたかったことを聞いていた。

聞きながら、「なぜ自分はこれをそもそも聞きたいと思ったのか」をそれとはなしに考えていた。

聞いていた事自体は、「自分の興味のある分野や、今実践している事をより深く知るにはどうすればいいのか?(主に論文や文献のあたり方)」を聞いていた。

聞いていたり、話していたりすると盛大に話がそれていった。時間は限られていたけどその流れに任せ進むに任せた。

すると聞きたいと思った所にそのうち戻ってきていた。


・自分自身がやっている事を他者に説明するため
・自分がやっている事はこういうバックボーンがある事と確認するため

はじめはこんな事が頭に浮かんでいた…。もう少しあるきがして考えていると…

・自分の興味関心が向いている事の一歩先を掴むきっかけがほしい。
・楽しいと思うから探求したいのであって、「楽しい」がなくなったら探求したくない。別に突き詰めたくない。

ここにいきついた。
ここまで来た時に自分の中でストンと何かが落ちた。
なるほど。

「楽しい」というのはあくまで自分の中にある価値観であって、絶対的なものではない。『”自分”が楽しいと感じていれば「楽しい」』になるものだ。

1.折り紙をおってみたら楽しかった。
2.同じようにおると、一回目よりきれいに早くできて嬉しかった。
3.他にも色々なものが作れるらしい(ワクワク。探したい。やりたい!)
4.新しい作品にチャレンジ!できた!
5.もっとほかにも…

なんとなく頭に浮かんだ自分の場合のn例だけどこんな流れがあるんじゃないかな〜って思った。あくまで楽しいからやっているだけであって、それ以上のものはここにはない。

もちろん、何に対して「楽しい」を感じるかは狭くはない。
やってみた時に初めて分かるから、やる前に決めつけてしまうのはあまり得策ではないのかもしれない。

とはいえ、じゃあどんな事にでも「チャレンジしてみましょう!」が是となるのかと言えばそうでもないと思う。

「自分はこれを今どう感じているのだろうか?」という事にいつも以上に慎重に見極めないといけないシーンというのはあるんじゃないかって思う。

単純に「楽しいからやる」だけではなくて、1つの何かを思い浮かべた時に去来するものってものすごくたくさんある時もある。

だからそんな時は慎重に丁寧に見てあげる必要があるのだろう。
誰かに急がされる必要はないし、焦らされる必要もない。
もしそれを今感じているというのであれば、少し距離や時間を取るというのが取るべき手なのかもしれないね。

聞きたい事を聞くために取ってもらった時間だけど、何らかのディスカッション?対話?ともなんとも言えないおもしろい時間になった。

こういうのは久しぶりだし、何かとてもおもしろい空間だった。
と、いうことで教えてもらった方法を使って「楽しい」と思う範囲で調べてみようと思う。

ちょいちょいここでは記録のように、日記として書いてみようかな〜と思う。

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