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美味美醜 1

 女性ディレクターの由紀美は、ある村で手に入れた原稿に目を通した。
 濃い鉛筆で四百字詰め用紙に綴っている。マス目から一字たりともはみ出ることなく、乱れた文字もない。驚くほど丁寧に書いてある。 
「作者のNさんについてですけど」
 ADを務めた鈴木は言う。
「これを机に残して、家を出ているらしいです。もう三年近く」
「Nさんのこと、聞いたのね」
「はい。この原稿を受け取ってすぐに。でも男性は……」
「やめて」
「……僕だって、人間があんな形になるなんて信じてません。そんな一瞬で骨になりますか? 恐ろしい」
「鈴木君」
 由紀美は席を立った。
「原稿、ありがと。今から読むね、これ」
「……どうぞ。僕は嫌ですけど」
「嫌」
「……食べ物、喉に通らなくなりそうで」  
 固唾を呑む鈴木を見て、由紀美は言った。
「私は逆、たくさん食べたい。体、持たないでしょ?」  
「由紀美さん、どうしてそんなに冷静なんですか。今度は僕たちに……」
「そうなったら面白い作品になるかも」
 由紀美は微笑み、また原稿に目を落とした。
 
 その村は北陸地方にあった。
 稲が茂った古くからの田園風景に、新興住宅が点々と増えていた。国道には自動車が絶え間なく走り、夕暮れになると車列が数珠つなぎになるほど数は多かった。長閑で、活発な地方都市を絵に描いた場所だ。
 ある日、取材班に一本の電話が入った。二十代男性が消息を絶ったという。
 声の主は落ち着いた様子で続けた。
「ぜひ見てもらいたい原稿がありまして」
 男は電話を切った。
 由紀美とアシスタントの鈴木はその日の夕方目掛けて現場へ向かった。
 これまで山奥の集落を始め、全国の過疎地域に足を運んできた。都会からの取材を煙たいと思う住人も数えきれないほどいた。現場の数をこなした今も不安は消えなかった。その地域だけ通じる決まりはもちろん、たとえ声を拾ってもどのように編集するか、常に課題はあった。
 移動中、由紀美は眠ったことがない。緊張から、目を閉じて束の間の眠りに就くことができない。せめて窓に広がる、どこか懐かしい風景を目に焼き付けることだけが救いだった。やがて小さな村が姿を現す。その瞬間を愛していた。
 個人タクシーの運転手によると、「車がないと大変に不便」らしい。そのため、どの住宅にも一台以上の車が止まっているという。
 降りてすぐに、どこからか犬の鳴き声が響いた。外からの人物に反応したのか、明らかに威嚇するような、野犬の喉に近い声だった
 カメラ片手に由紀美は村の奥へ歩いた。勢いよく流れる用水路があった。捨てたペットボトルが滝のように落ちる水の弾みを受け、浮いたり沈んだりを繰り返している。
 新年度が始まる気配はどこにも感じなかった。村全体がしんと静まり、気付くと犬の声も遠のいていた。日暮れに聞こえるのは、例の用水が流れる音のみ。それはごおごおと、不気味に途切れることなく続いていた。
 男性から小説原稿を受け取ると、由紀美と鈴木は礼を告げ、村を後にした。
 作者はN(仮名)氏。二四歳。実家の二階、子供部屋から消息を絶ち、有力な手がかりが見つからないまま三年経過している。学習机に原稿だけを残し、これを遺書とする見方も消えていない。計二〇枚。一枚目から通し番号も忘れず振ってある。
「僕も彼についてほとんど知らないんです。確か小学六年くらいから顔を見なくなりました。今、顔を見ても面影ないでしょうね。これは両親から預かってました。まるで探すなって言ってるみたいですけど……たぶん、将来を悲観したのかもしれません」
 住人である男性は、匿名を条件に原稿を渡したかったという。
「これ、目を通すのが辛くて。彼、遠い砂漠に飛ばされたんじゃないかと疑っています」
 由紀美が勤める制作会社は、N氏で話題が持ちきりだった。
「もしかして、楽園に行ったとか」
 鈴木は言う。
「……僕も、消えたくなるんです。時々」
「そんなこと気安く言っちゃ駄目。何のために取材したと思ってるの。これ、Nさん本人が書いたのよ」
「呪われたらどうするんですか。あの男性、どうなったか思い出してください」
 鈴木の肩は震えている。原稿を提供した男性が浴槽で死んだ、と知ったのは東京に戻ってすぐだった。捜査班が駆け付けてすぐに猛烈な異臭がしたという。シャワーカーテンの奥、浴槽は血まみれだった。全身の骨のみとなった人間が一人、口を開けて迎えていたらしい。まるで獣か、何者かが、皮膚だけを鋭い爪で剥いだ跡だった。
「新年度にヘビーすぎると思わない?」
「死体が出た日、休みでよかったですよ。ここで仕事してる僕らにも怨念が憑きそうですから」
「クリエイター冥利に尽きるよ。私、Nさんに会いたくなってる」
 由紀美は鈴木の顔を見た。
 
  時計の針は五時を回っていた。
 由紀美は会社のキッチンで氷を砕き、グラスに入れた。原稿をチェックする際、決まったようにお酒を飲む。鈴木や他の若いスタッフに、飲み過ぎと注意を受けても構わなかった。自慢のアイスピックを持つと、映画の中のヒロインになった気がした。
 これをデスクの引き出しに入れておく。キッチンに置くと、つい冷蔵庫から新しい氷を取り出してしまうからだった。
少し早い晩酌と言えば聞こえはいい。だが実際は仕事からのストレス緩和だった。
 駅からこの職場まで、何人もの目を惹くほど由紀美は美しかった。容姿に加え、仕事の実績も着々と築き上げている。〈美人ディレクター〉と男性に呼ばれることには戸惑いもあった。
「僕、もう帰ります」
 鈴木は力なく扉の外へ消えた。
 原稿用紙の一枚目。吸い込まれるような文字。つい昨日まで執筆していたと聞いても不思議ではなく、改めて見ると皺一つ見当たらない。当然、飲み物がこぼれ落ちて汚れた形跡もなし。陽が射したゆえの変色もなく、ほぼ新品のままだった。これは長い間、カーテンを閉め切っている証拠かもしれなかった。
 つまり部屋の住人は初めて人の目に触れることを恐れているようだった。
 鈴木の言う通り、呪われるかもしれない。題名も、作者名も記さず、紙に残した文字のみが息をしている。〈何曜日かの真昼だった〉と始まる冒頭には不穏な響きを感じた。
 由紀美は胸の高鳴りを抑え、一枚目に食い入るような視線を落とした。

つづく

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