美味美醜 3

 寝ぼけた女の顔が横目に映った。
 トレーナーの下にむき出した白い脚が飛び込んでくる。
 鶴見川の近く、綱島東五丁目の学生向けアパート。駅から離れた閑静な住宅街だった。木造の二階で熱がこもりやすく、夜は隣室の声が絶えないらしい。
 梨奈とは十二歳差だった。「女の子一人暮らしでありえない」と注意すると、「夜間はちゃんと閉めている」と反論した。「じゃあ、いつ鍵開けておくんだ?」と聞くと、今度は「あなたより早く起きる」と答えた。
 どれだけ空腹でもバナナ一本のみで済ませた、と聞いている。仕方なく私が朝食を作った。ハムエッグを皿に移し、二本のウインナーを転がして焦げを付ける。品物はすべて梨奈が〈まいばすけっと〉で用意した。キッチンとテーブルの間は、成人一人分くらいしかなかった。
 食べ終えると、梨奈は不機嫌な顔で洗面所に消えた。さっきシャワーのあと、私が便座を上げて小便をした場所だ。
右手には、黒い携帯電話があった。
「弟に電話」
 梨奈は驚いた様子で、目をこする暇もない。
「俺が兄さんにふさわしいかどうか、ここで聞いてみるといい」
「そんなの、あの子に聞いたってしょうがないでしょ」
「一度でも兄さんになれるなら満足だ。さっさと電話しろよ」
 離れた家族は何も言ってこない。何ヶ月もの間、都会で暮らし、梨奈という若い女と戯れ、話していることも。
「俺がしてやろうか」
「やめて」
 携帯を梨奈の耳元に当てた。
 白い息を吐いてジョギングした朝が遠い。二人で走ることを辞めてから、数か月経っていた。
 会話が途切れそうになった日、些細なことで沈黙ができた日、梨奈はよくシャワーに入った。涙目を洗い流すにはぴったりらしい。「湯冷めするから」と口にするつもりが、喉につかえてしまった。
 しばらくして扉が開いた。
「湯冷めなんかしないから」
 バスタオルを羽織った梨奈が言った。肌が紅潮していた。 
梨奈は冷蔵庫からボルヴィックを取り出し、封を開けた。出会った朝、あの川で、一緒に口を付けた水だ。
「脱いだ服、貸してくれる?」
 命令に従い、私は服を取った。ついさっき扉から放った服だった。真っ白なニットに温もりを感じた。柔軟剤のせいだろう。ロフトの匂いと同じだと思った。
「あそこ、何もないのに。一応、バス通ってるみたいだけど」
 そこは一時間あまりで到着する砂漠だった。昔はテーマパークとして栄え、今はアトラクションだった一本の塔のみが残されている。
そうだ。私が受けた診察所の扉もある。
「生まれた時には、もうなかったんだもん。ディズニー行きなら夜行バスであるけど」   
梨奈と二人で行ってみたいと思った。
ある日〈さぼてん〉の豚カツを買った。二枚の皿の上は眩しいくらいだった。温めた〈三元麦豚ロースかつ〉が二枚、百円のキャベツに並んでいた。
「おいしい」
梨奈は言った。珍しく笑顔だった。
 口に入れた途端、乾いた音が聞こえた。舌の上に肉汁が乗る。噛み砕くたびに、熱い汁が垂れた。
 自分が何を食べてきたのか。はがきサイズのファイルには、夥しい数のレシートがあった。鶏の竜田揚げ弁当、おにぎり、三元麦豚ロース、アイドルカレンダー。すべてこの部屋で開いた商品の記録だった。
「あなた、何かしないと落ち着かないタイプでしょ。それって、自分を追い込むだけだと思うよ」
 何も反論はできなかった。舌もよく回らないまま、「ああ、そうかもしれない」と返事をした。

 鶴見川の空に、富士山が白く浮き出ていた。
 犬の散歩をしている人とすれ違った。雪国では春にこれほど光を浴びない。水溜りに曇り空が反射することも少なかった。生まれた地域が、一体どこにあるのかさえわからなかった。
 ジョギング帰り、必ず梨奈の部屋に寄った。
 狭い玄関を見て目を疑った。ランニングシューズが綺麗に並べてあった。私と同じセダークレストのシューズだ。鮮やかなピンクは梨奈の最も好む色だった。
 おはよう。
 その声を聞いて耳を塞ぎたくなった。
 もう一緒に走ることなんかない、と思っていたからだ。
 エプロン姿で目の前に立った梨奈がいる。卵と、ベーコンを焼いているらしい。
 いつか親の援助もなくなって、バナナ一本すらも買えなくなったらどうすると聞くと、梨奈は黙ってパソコンのキーを叩き始めた。横顔に笑顔はなかった。子供たちが学校に向かう時間、梨奈も仕事を始める。ドアを閉めて、これまでの自分について書く、という。書きながら、「どうせ自分は自立できない女」と口癖のように言った。
 なぜランニングシューズを箱から出したのか、聞かなかった。まさか二人並んで走ることを考えていたのか。それなら、フライパンを握るより先に、言うべきだったのだ。
 バスの運行時間を調べた。〈東洋サンドパーク〉行きは、駅前から一本のみ。午前九時十六分発。
 近くの中学校に向かう女の子の背中にテニスラケットを見た。梨奈は何部だったのか、聞いたことがなかった。
 綱島駅前は月曜の朝を迎えていた。人の足の動きが早かった。週明けは誰もが急いでいる。人の数に眩暈を感じた。誰もが自分と同じように歩いている。タクシーが目の前を過ぎた。綱島は道が狭い、とはブッダも知っている。
 バスの発車音と共に交通整備の警笛が飛び込んでくる。仕事へ向かう大人と、セーラー服に着替えたばかりの少女が歩いている。排気ガスが立ち込めた薄暗い道だ。ツバメが空を裂いて、コンクリートの角に作った巣に戻る。 花屋さんが見えた。バスに乗った。無表情の中高年に混じって揺れた。外は陽の光に溢れ、ハエ取り紙のような黄ばんだ大地を見た。目が眩むほど窓色は明るかった。
 胸の内で「行き先は、東洋サンドパーク」と繰り返した。深呼吸をした。出かける前に梨奈を押し倒したこと、その記憶ばかり残る。
 部屋を訪れるのは最後だと思った。私はアパートの扉を力強く叩いた。
 ドアから怯えた顔が覗いた。驚いた顔が余計に神経を障った。あいにくお菓子をねだる子供ではない。ハロウィンの夜は程遠かった。
 すすり泣きのようだった。悲鳴すら聞こえないくらい夢中だった。きっと喉元から被りついたために聞こえなかったのだ。髪と骨だけを残してすべてその場で食べ尽くした。これがどの臓器で、どこにある脂肪か判別がつかない。子宮だってたぶん一飲みで胃に収めてしまった。美味しいとか、苦いはわからなかった。それが恋人の肉の味であると信じた。とにかくお腹がすいていたのだ。血まみれの床で、額から流れた汗を拭い、私は生まれて初めて、自分が獣になった気がした。
 食べている間、部屋の奥から何度か着信音を聞いた。きっと梨奈の弟だろう。ついに一度も、ただの一度も彼と話すことがないままだ。
 お前の、姉ちゃんとの短い日々。薄暗いロフト。そこに二人の汗が染みた布団がある。アパートの二階、誰かが作った狭い庭園。シャワー明けの濡れた体。証拠に、ロフトへの急な梯子は湿り気を帯びていた。足の裏が乾いていないためだ。
 梨奈が先に上がった。
 ロフトには茶色の長い髪の毛が何本も落ちていた。それを指でつまむと、梨奈は恥ずかしそうに手で隠そうとした。ついさっき自分をバカにした顔が、一瞬で子供みたいに変わり、愛しく思った。
 梨奈はカーペットクリーナーであらゆる毛を絡めた。
 それをゴミ箱に捨てると、また私の上で腰を振り続けた。
 
つづく

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