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【体験】いろんなバイトをしてきた

これまで身に起きた出来事をメモした。

と言っても、それほど大きな怪我もなく今日を迎えている。ひょっとして、人がなかなか経験できないこともあった……かもしれない。

17歳で金沢高校を辞めたあと、私は学習机に向かう毎日を送った。とあるエッセイコンテストで佳作入選し、図書カード2000円をもらった。早々と一応の結果は出たのだった。しかし、人生は部屋の中で過ごす時間だけではなかった。

ここでは、18才からの数々のバイト経験を綴ってみる。どれも実話である。

人に歴史あり、というけれど、短期であれ、とにかく経験してよかったと思っている。

【弁当工場】18才 石川県野々市市

桐野夏生氏の『OUT』で主婦たちがパート勤務している工場がある。
それと似た現場で、マスクの下では苛立ちが隠せない。誰一人として楽しそうな人はいなかった。なぜ主婦がこんなにも集まっているのだろう。なぜ何人も集まると、口うるさく、厚かましくなるのだろう。いろんな疑問を払拭できないまま、ある日、男の正社員に呼ばれ、クビになった。

初めてバイトして思ったことは、自分の意見など何も言えないことだった。言われるがままにコンビニ弁当を並べていく。何か口にしようものなら、抹殺とばかり目が光る。劣悪な現場だった。出鼻を挫かれたように。

現在、この工場は名前が変わっている。出荷先の〈サークルK〉はどこにも見つからない。

確かクビになる前の帰り道、近くの書店に立ち寄ると、毎月読んでいる雑誌〈ロードショー〉に目が留まった。表紙はシャーリズ・セロン。巻末の読者プレゼントに自分の名前が。ハリウッドからの贈り物のようだった。

苛立ちは時に幸運を運ぶ。映画は味方してくれたのだった。この頃から、制作に興味を持った。ある日灰色の工場をクビになっても、海の向こうのシャーリズ・セロンは微笑んでくれたのである。

【イベント撤収作業】19才 石川県白山市

田村企画という会社で2日間、ヤンキー社員たちと、テントやブルーシートの撤収をした。
途中、トイレに行こうと近くの売店に向かおうとした。
「おい!」
怒号が飛んだ。「トイレならあるだろ」と、その男はすでに撤収した簡易トイレを指差した。これが使用できること自体、初耳であった。
私は用を済ませた。どこからかキンバエがやってきた。それでも、映画で見た「スコットランド一汚いトイレ」には及ばない。

【通信工事補助】19才 石川県金沢市

電線工事のトラック前に三角コーンを並べたりした。現場へ行くトラックのの座席に3人乗車、私は真ん中に押し込まれ、煙草を吸う男二人に挟まれた。

途中で辞めた。

【年賀状の仕分け】19才 石川県白山市

小学6年生当時、担任だった先生へのはがきを見つけた。
何万枚の中の一枚を引き当てた気がした。暗闇の中、自転車を漕いで、「東京に行きたい」と思った。表参道でシナリオを学ぶためには、学費がいる。翌年、私はバイト代を握りしめ、越後湯沢経由で上京した。

【乗降調査】22才 23才 石川県金沢市

北鉄バスの後部座席に乗り、朝から目視で乗客の人数を数える。
早朝から家を出ているので、午後は睡魔との果てしない戦い。金沢大学の生徒や、中国人留学生もいた。彼らとそれなりに会話を交わした。

各営業所によってルートも変わる。バスは金沢市内を縦横無尽に走り続け、学生からお年寄りまでを運ぶ。ある便ではJKに囲まれ、このバイトが間違いなかったことを知る。また、ある便では夜な夜な津幡まで運ばれ、なんて過酷なんだと思った。夕闇が迫り、香林坊が明るくなる瞬間も乗客の数を追った。

私はスーツを着ていた、服装の指示はないが、この時ほどスーツの力を感じた時期はない。「スーツのお兄さん」として、すっかり学生バイトの中で定着していた。地獄のような弁当工場から抜け、やけにのびのびとしていたように思う。早朝、近くの営業所(南部車庫)にマウンテンバイクで駆ける。昇ったばかりの朝日がとてつもなくキラキラしていた。

ある朝、一際目を惹く女の子がいた。
杏さゆりさんそっくりで(本人かと思ったくらい)、こんな田舎になぜ?  というほど可愛かった。
仕事前に束の間の会話を楽しむと(どんなバイトだ)、彼女は違うバスに乗り、音もなく現場を去って行った。

最終日、バスの外で微笑んだ姿が焼き付いている。名前を聞かなかった。今頃、幸せな家庭を築いていると思う。

【選挙立会人】24才 石川県野々市市

開票時間の朝7時から、ひたすら座り続ける。同級生の女子に気付かれ、軽く手を挙げる。午後、交代。座るだけの仕事なのに、日当は良かった。

この後、しばらく何も働かない日々が続いた。

【倉庫内作業、試験管補助、ワイン試飲会補助】31才 神奈川県横浜市鶴見区、東京都

30代に入った私は、〈ヒューマントラスト〉という派遣会社に登録した。
ここでの数々のエピソードは、小説のネタになっている(別記事参考)。

京急生麦の高島屋倉庫が、後に小説『創刊サンデージャーナル』につながる。
たかが倉庫内作業、されど倉庫内作業。集まる人の質がいい、なんて保証はどこにもない。やけに先輩面する男が、「はいはい、わかりました」と答えた私の態度にカチンときたのか、怒鳴り声を上げた。

その結果、ヤマト正社員が飛んできて、現場は騒然となった。私は冷静だった。怒鳴るほどの相手ではなかったと判断したからである。

別の日は明治学院大学で社労士試験があり、その補助を行った。本好きの男性と話し、小説を書いていると打ち明けた。ホテルオークラでは、ワインの試飲会のために、夥しい数のペットボトルや瓶を捨てた。この日ほど、環境汚染を考えた日はない。どれも飲みさしだったからである。夜、テレビ東京の横を通って、人生で最もゴミを捨てた日を終えた。

【クロネコヤマト倉庫内作業】31才 神奈川県横浜市港北区

12月、まだ夜も明けない時刻に現場へと急いだ。白い息がしばらく消えないほど気温は下がっていた。

トラックの荷台へ積む荷物を並べていく。小さな箱、大きな箱、ゴルフバッグなど、ありとあらゆる物を手にしていく。アマゾンで注文する人が増えた結果、このように人手も借りることになった。
助っ人である我々を気に食わない中年の女社員が開口一番、

「どこで教えてもらったか知らないけどさ!」

いや、お前が教える立場だろう。
この人は私を「伊藤さん」と間違って呼び続け、思わず「伊藤じゃねえんだよ!」と返してやった。やはり、師走の朝は忙しい。

8時過ぎに抜けると、昼までが長かった。ここ綱島での早朝体験は、バイオレンス小説『Bcc』のネタである。

 【倉庫内作業】32才 東京都

マイ・ワークに登録。
再び生麦へ舞い戻る。同じ高島屋倉庫内の1階で作業をしていた。割と気の合う同僚がいた。中目黒の学校を卒業して3年。もはや映画業界など遙か彼方だった。

【おわりに】

映画『スラムドッグミリオネア』は、これまでの人生経験からクイズの答えを探し当てる。さて、私が解答者の席に座るとして、一体どんな4択ができるだろうか。例えば、

〈石川県から撤退したコンビニエンスストアは?〉

〈金沢駅から寺井まではおよそどれくらいかかる?〉

〈次の内、金沢市のJKの制服は?〉

〈世界で最も空き瓶が増えるイベントは?〉

〈ゴルフバッグが増える曜日は?〉

これらの難問(?)には、いつだって正解できるだろう。外で働くことを避け、室内で原稿ばかり書くようになってから、もう10年以上経過している。

その間、私は20歳当時からの夢を叶えることができた。
それは〈長編映画のシナリオを書く〉ということ。

ある日、いつもの散歩の途中、ふと「もう夢は叶ったのかもしれない」と思った。一応、下手なりに完成した原稿があった。高校生の頃、『トゥルー・ロマンス』を見て、いつか自分も映画を書きたいと思った。それが達成できていた。

どんなバイト経験も役には立っている。外で様々な経験をしたからこそ、部屋の扉を簡単に閉めることができたのだと思う。この男が国語の時間、真っ先に手を挙げた奴だと誰が思うだろう。

この記事に上げた数々のバイトは、すべて自分から応募している。
人手が足りない割に、傲慢な社員が多かった。そのような会社に長居する必要はないし、バイトだからと言って委縮する必要もないと思っていた。幸いブラックとまで行かない現場だったので(たぶん)、すぐに抜けることができた。自分のように負けん気が強く、正社員にも堂々と声を上げる性格だと、潰されることはない。あえて聞こう。死んだ顔で月一の給与を当てにする人生の何が楽しいのだ?

ブラックなバイトで命を落とす、自分より若い世代が可哀そうだと思った。
自分のバイト歴を公開した理由は、決して立場の弱い存在だと思わないでほしいからだ。

ある大人は「仕事ってのは選ばなかったら、なんでもある。選ぶ必要なんかない」と言う。
文字通り、得意ではないこと、例えば何人かで力作業することを経験してきた。好きな音楽や映画、文学の話など封印してきた。「選んでいる暇ない」と言う父には、いつも反発してきた。肩書なんて、それこそ選ばなかったら、どうにでも付くはずだ。人がやらないこと、やりたくないことを結局は親世代が避けたいだけだろう。「会社員」以外の肩書が、珍しくあってほしくない。 

ふと思い出したことがある。
弁当工場で働く前、POP文字を通信講座で習っていた。近所のCDショップに電話を掛けると、「食べていけないよ」と鼻で笑われた。現在、その店は撤退し、ガーデニングショップに変わっている。CDを並べるだけでは食べていけなかったらしい。

正社員の態度ほど、その会社を反映しているものはない。早くにそれを気付けたのは幸運だった。もしスティングがVanVanの店長だったら、何と言うだろう? 「君はPOP描けるのかい? いいね。とりあえず最初は接客から始めてみないか?」なんて言うかもしれない。そのような対応であれば、随分と印象は違うはずだった。この店でポリスのベスト盤を買ったのは、それから一年後くらいである。

ドン・キホーテのPOPを見る度、かつて電話の向こうで小馬鹿にしたおっさんを連れて行きたくなる。見ろ、これのおかげで売り上げがアップしてるぞ。同じように描いてみやがれ。
生き残る店、潰れる店の違いを今日ほどわかる時代もない。失われた30年とはよく言うが、少なくとも、我々より先に社会に出た世代が醜い態度を取っているのは事実だ。もう一度書こう。死んだ顔で月一の給与を当てにする人生の何が楽しい? 

田舎の弁当工場から、小説やらシナリオを完成させるまでを映画化したら、面白いかもしれない。「人生を選べ」とは、ユアン・マクレガーの台詞だ。『トレインスポッティング』の本当の意味は、「チャンスには逃さず食らいつけ」だった。続編『T2』では故郷エディンバラに舞い戻る姿があった。映画の中のユアン・マクレガーと同じく、私はイギーポップの歌声に、十代当時と変わらず心躍らせた。

もし、シャーリズ・セロンに会ったら、

「初めてバイトして買った雑誌の表紙、あなたでした」

と言おう。見慣れた店内で自分の名前を見つけたあの時以降、海の向こうのハリウッドサインが近くなった気がしている。

  • 追記 正直なところ、映画制作の興味は薄れてしまった。全くお金になっていないからだ。脚本を映像化、という夢を見ている間は何も変わらない。この夢から逃れるために、しばしの間、バイト歴を振り返った。そろそろ、部屋の外へ出てみたい。実績のない書き手の部屋に飽きてきた。この記事がきっかけになればいいと思っている。