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新連載 Bcc 1

 煙が車の割れた窓から勢いよく吹き込んでいる。
 助けを求めているのか、車のすぐそばで一人の男がうつ伏せで片手を上げている。
 夜風で川面は波を打っていた。火柱が揺らめき、揺れて、たった今駆けつけた住民の足の先まで届くようだった。勢いよく燃え盛り、闇一辺を照らしている。アパート〈イコーレジデンス〉はもぬけの殻だった。隣の部屋、下の部屋、次々と外へ出た証拠だ。
 子供たちもその場を離れず、凝視していた。大人が咎める隙もなく、一目散に帰る子は一人もいなかった。
 空は暗い。ここ数日の梅雨空が男を見下ろしている。

「現場を見ています」
 青年はアパート二階に住んでいた。階段を上って二つ目の扉、二〇二号室から土手までは一分もかからない。目と鼻の先とはいえ、宵闇に足を延ばすことは少ないという。
 隣の騒音から逃れた先、河川敷にセダンが炎上していた。
 外での騒めきに惹かれるまま出た、と話す。
「すごい人だかりでした。僕が駆けつける頃には、五丁目のほとんどの人が気付いていたと思います」
 翌朝、鶴見川での炎上を伝える紙面が躍り出た。六月三日未明。現場は横浜市港北区駒岡五丁目。倒れた男性は緊急搬送の後、死亡。免許証なし。
「男を知っています」
 以前働いた現場で、似た男性を見たと話す。
 机に、テープレコーダーが一台。今となっては骨董品に映っていた。蛍光灯は二人を照らし、小さなテーブルに微妙な影を作っている。開いたままの扉。しかし、外から被疑者である青年は確認できない。衝立が高く覆っているためだ。
「鶴見川に出た。間違いないな」
「はい。三人でその男性を訪ねました。ちょうど半年前の師走に」
「年齢は五十代から七十代。歯が抜けている」
「僕は根本さんの後を付いただけです。本当です」
「しっかり手袋とマフラーを着込んで」
「はい」
「だが焼死体の写真も出てるぞ」
 矢崎は手を伸ばした。
 部下の宮田が数枚の写真を渡した。
「これを」
 矢崎は一枚を机に放った。
 青年の視線は写真の中、横たわる死体に注いでいる。
「浮浪者の死体だ」
「この人は、園田さんから連絡を受けてたらしいです」
「根本もよく歩き回るな。車から降りてもすぐには受け取れなかったわけだ」
「元は、僕が持ってたテープのせいです。さっき話したやつ」
 矢崎はテープレコーダーに手を伸ばした。
「安心しろ。今どきこれで録音するやつはいない。つまり君の声は俺と宮田以外、誰も聞いちゃいない。磁器の重ね録りなら前の時代で終わってるんだ」
「……宅間さんから」
「受け取ったと聞いたぞ」
「はい。園田さんは顧客を管理していました。僕が訪ねた日も」
「麻薬ってのは手を切ることなく利益を出すんだ。路上であれ、川であれ」
「吹き込んだ内容、知らずに大倉山に向かったんです。もし知っていたら」
「言い訳ならいい。園田を訪ねたのは君だ」
 矢崎は巻き戻しボタンを押した。古いテープのため激しく音が鳴った。
「もう一度、中身を聞こうか。別に亡霊を呼び出すわけじゃないからな」 

(つづく)