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本を読む理由

昨夜、左の人差し指を玉葱と一緒に刻んでしまって、物凄くキーボードが打ちにくい。
身体の、ものすごく小さい部品の、そのまた先端だというのに。
こういうとき、つくづくロボットのボディが欲しいと願わざるを得ない。

私は、人間があまり好きじゃない。

私は本を読む人間だ。
小さい頃から、息をするように本を読んできた。

別に得たものは何もない。
本当に、何もない。
ただ、本を読み、また本を買い、または借り、本を読んできた。

一年間にそれなり以上に本を読む人間にとって、
「読書好き」とか「趣味は読書」なんて言葉ほど違和感のあるものはないだろう。
彼/彼女にとって「本を読む」という行為は入浴より食事より自然なものであり、趣味や好き嫌いで語れるようなことではないからだ。

「読書」という行為に就いて書けることは、だからとても少ない。

きわめて個人的な行為だし「趣味」「暇つぶし」「勉強」…と捉え方は自由だ。
なかには読書なんて絶対にしないという人種もいる。
本を読むことに意味なんてないという人もいれば、本を読まないとだめだという人もいる。
沢山の本を所持せず、気に入った本を何度も何度も繰り返し読むことこそが至高の読書態度という、一周まわってイマココみたいなことを言う人もいる。

どちらでもいいし、どちらの言うことも正解だと思う。

沢山の本を管理するには、それなりにコストがかかる。
本を買わなければ買えたものもいくつもある。
今週はカップ麺で我慢して5000円の本買ったとか言ってるやつもいるし、
私もいい加減下着を買うようにと渡された金を幾度となく本に溶かしてきた。
何故か出てくる、全く同じ本2冊、とか、何故か出てくる単行本とその文庫版、とか。
そういう意味不明な行いも本を読まなければなくなるだろう。

学校や職場で、自己紹介する機会ってありますよね。
趣味を言い合う場面で
「本読みます」
と言うと
「おススメはなに?今度教えてよ」
とか
「本なんて読んで楽しい?」
とか聞かれて困るので、
どうでもいい場所では
「釣り」とか「演歌」とか言って誤魔化してしまう。
聞いた相手はどうでもいいと思って聞いているのかもしれないが、
こちらからすると土足で部屋を荒らしまわられた挙句、結局何も持って行かない空き巣に入られたような気分になるので。

沢山の音楽を聴く人間や
沢山の本を読む人間は
ほぼ間違いなく傲慢と偏見に満ち満ちている。

私も自分がそうだといいなと思っている。

そういう人間を信用してもいる。

生半可な偏見ではだめだ。
生半可な偏りの人間は、なんか接しにくい人が多いという偏見を持っている。
自分の偏見に自信を持って欲しい。
私の周りの本を読む種族は、皆、一見、すごく物腰柔らかで、接しやすい。
でも恐ろしい量の本を読んでいる人たちばかりだ。

ここぞ、という時にだけ、その偏りを見せてくれるのだ。

かれらの for me/not for me の峻別はきびしい。
私などには理解できないくらいの繊細な線引きをする人もいる。

とてもいい。

何もかも受け入れる度量の広さなんて不要以外のなにものでもない。

捨ておけ・苦しゅうない、を繰り返し繰り返し、我らひとりひとりの本棚は出来上がっていく。

そして、その誰も、自分が本を読む理由なんて多分分かっていない。

後付けの理由なら、それらしく幾つでもくっつけられるかもしれない。

でも、私たちは、気付いたらそういう人間だった。

頼まれもしないのに全集を揃えたり、たかだか2,3泊の旅行に着替えより多くの本を詰めていって泣きをみたり、岩波版と新潮版どちらの「魔の山」も所持していたりする。

私たちは貪欲な熊だ。
グリズリーで、ヒグマで、月の輪ベアだ。
いつも旨い鮭を探し回っている。
いつもたくさんの旨い鮭を腹いっぱい食べたいと願っている。

ロボットの身体が欲しいと願いながら、合理的な演算が出来ない。
本を読んで幸せか、ということも正直よく分からない。

どうにも困った存在。

それが「本を読む人間」だ。


•ө•)♡ありがとうございます٩(♡ε♡ )۶