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詩人の持参金

通院日。
デボラ・フォーゲル「アカシアは花咲く」を読みながら電車に乗る。

デボラはブルーノ・シュルツの恋人だった女性で、40歳の若さでナチの銃弾に斃れた作家である。
この本を読んでスッと入ってくるかどうかは、知識や読解力というよりも、読者側(receiver)が、この本の発するエーテルのようなものにシンクロする心理的状態にあるかどうかだという気がする。
というのも、一読するとシュールレアリスム運動に遅れて参画した作品としか受け取られない仮面をかぶった作品だからだ。
デボラは、たぶん、【鍵】を作品に隠す名人だ。
【鍵】を隠してある場所を見つけて様々な場所に設置された扉をあけてゆくとそこにはみたこともない絵画、【コトバによって描かれた絵画】が壁にズラリと並んでいる部屋に入ることができるだろう。
というのも、今回私はこの作品を非常に滑らかにすみやかに読むことが出来たからだ。そして、私はシュールレアリスム系の作品がそんなに得意ではない。デボラ自身が自作について述べている箇所を引用してみよう。

確かに、まったく異なる見知らぬ(見かけ上は見知らぬ)物と状況を結びつける方法は、シュルレアリスムに近い。しかし、物と状況を結びつける基盤が私の場合はーいずれにしても、私が想定しているものはーシュルレアリスムとはまったく違う。私がシュルレアリストたちの自由な走行に従う気はなかった。私が求めたのは、まさに物そのものの客観的論理であり、相互の帰属関係であり、その徴候的性質ーそのおかげで見かけは異なる見慣れぬ状況と出来事が同じ一つの原則の徴となるようなものーだった。
「アカシアは花咲く」デボラ・フォーゲル著 加藤有子訳 p.172より引用

さらに、デボラは自分の作品の意図によりかなうのはメタファーよりも比較であるとし、二つのものを分かちながらも近い場所に置く比較のほうが自分に近いのだという。

……このように書いていても、正直、私にはよく分からない。
おそらく文学的にどういう価値があるのか、みたいなことに重きを置いて読書をしてきていないのと、単純に難しいことをいろいろ言われると爆発してしまう残念な脳みその持ち主だからだ。

ただ、デボラが散文をつかって人間さえも素材として扱うことで、繰り返し【砕けた人生】についてのコラージュ(本人はモンタージュと呼んでいるが、わたしにはこっちのほうがしっくりくる)を作成しようとしているのではないかと強く感じた。

そしてここからが本題なんだけど(前置きが長すぎる)
才能がね、すごすぎる。
単純に才能がすごすぎるんだ。
ブルーノ・シュルツが書評のなかで述べているように、

本物の詩人が世界に携えてくる持参金
同書 p.181より引用

のような世界観なんだもの。

ごめんなさい、この作品だけは読んでみてくださいとしかいいようがない。
繰り返されるモチーフとそのままの意味で素材として使用される固有名詞(とても少ない)で描かれた絵画。としかいいようのない作品で、思い出せる限りだとミヒャエル・エンデ「鏡のなかの鏡」がいちばんイメージとしては近い…かな?という感じ。

このような作品に触れるたび、かつて地球上に間違いなく神に選ばれた才能の持ち主がいて、正しくその才能を使って作品を作ったこと、明らかに才能などないのに駄文を書き散らす自分の存在意義は…などという絶対に落ちてはいけない穴に何時間でも落ちる羽目になる。
それは冗談半分としても、ひかるものなどなにもない人間が生きていて何か書き残せることがあるとするならば、それは何であるべきなんだろう、ということは死ぬまで考え続けるだろう。

生の問題を解決しようという点から、歩行という現象を考えるならば、歩行は目的なしでよい。実際、歩行はいつも疑いようのない目的を持つが、生の必要性が受け入れられ、認められ、確かめられたことを完全に証明するわけではない。
同書『アザレアの花屋』 p.54より引用

この文章には驚いた。
昨日アップした詩のテーマにドンピシャで答えてくれている…。
しかも四行…。

つまりは愚者の務めは賢者の言葉をすこしでもかみくだいて種にして蒔いていくことだけなのかもしれない。

そんなことをつらつらと考えた読書でした。

それにしても、この松籟社の「東欧の想像力」のシリーズはいい。
コツコツ集めて読んでいこうと思っている。
他に今、きちんと集めて読んでいこうと思うものリストとしては、
・藤原書店のバルザック(人間喜劇)
・水声社のバルザック(愛の葛藤・夢魔)
・水声社のパスカル・キニャールコレクション
・クオンの新しい韓国の文学

といったところだろうか。

病院では、主治医にインフルエンザに罹患したことなど伝えた。
「まさか今の処方薬といっしょにゾフルーザ服用してないよね?」
と不安げな主治医。
いや、それどころじゃないくらいしんどかったから…というとホッとしていた。…なにか問題があるのか?
いい先生なんだ。
ちゃんと話を聞いてくれるし。



帰り、デパートによって夫へのヴァレンタインの贈り物を探した。
でも、甘いものをそこまで好きじゃないしな…と思い直して、
おいしい珈琲にすることにした。
たくさん試飲させてくれて、都度都度、豆の薫りを嗅がせてくれた
「ゆげ焙煎所」のお昼のコーヒー
というのを買った。


帰りの電車のなかで
四方田犬彦「すべての鳥を放つ」
を読み始めた。

寒かった。
草臥れたし。
でも今日も生きていてよかった。なんとなく。

•ө•)♡ありがとうございます٩(♡ε♡ )۶