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あなたは、ブラジルに叔父がいますか? #3 父の酔い物語

これは 僕の家族の記録

とても文才があるわけではない僕ですが この話を残しておかなければならないだろうと 勝手に使命感を抱いている次第

一応シリーズで書いている僕のこのnoteは いつもお酒が入ったときにしか 筆がすすみません いまは筆どころか タッチがすすまないという時代でしょうか

今日は父の話

父は仕事を終え家に帰ると いつも晩酌を始めて 僕によくお説教を垂れたり 昔の話をするのでした 僕がこのnoteに記すように 誰かに知っておいてほしい 自分の一面があったのかもしれません そんな父の姿を思い出しながら 僕から見た家族 特に父の話をしましょう

僕の父は高校教諭 母は看護師でした そして僕には姉が一人います 二世帯で暮らしていて 祖父は僕が小学生の時 遠足から帰ってきたときに亡くなっていました 何も知らず楽しかった遠足の帰り 家にたくさんの車が泊まっていて 何が起きたのかをその時はよく理解していませんでした

祖母が亡くなったのは 僕がもう少し大きくなって 大学に入学してからのことでした 僕の中での祖父の記憶は少ないのですが 祖母の記憶はたくさんあって 僕は おばあちゃん子でした それが今の仕事にもつながっているのかもしれません

さて親子の話でいえば 我が家は親子の会話はよくする方で 思春期になると両親の馴れ初めを聞くことなんてこともありました 両親の出会いは病院 父は患者で 母は看護師 なんとも安直笑

なんで父は母に惚れたのか 昔のアルバムを見ていると 祖母と母が映っている写真が目に留まりました 当然のことながら父方の祖母と母には血のつながりがないのですが とても顔がそっくり そうか! 父はマザコンだったのか と 父の秘密を垣間見た瞬間でした 考えてみると僕の中にも母に似た顔の人に親近感を抱くところは ありますね 男ってきっとそういうもんなんです

そんな両親の最初のデートは映画だったそうです その映画は…宇宙戦艦ヤマト(アニメ) あぁ 父はアニオタだったのか と そのとき悟りました笑 思えば父は僕が小学生や中学生くらいの時 一緒に漫画やアニメの話をすることがあり こちらからすると理解のある人だなぁと思っていたのですが アニメ映画デートの話を聞いて 妙に納得したのでした 父はそういう自分の一面は隠していたのかもしれません しかし しかし父よ なぜアニメ映画を最初のデートでチョイスしたのか もう少しいいのあっただろう!! あやうく僕が生まれてこなかったかもしれない

こんな仲の良い一面もありますが 思春期はなんでも包み隠せず話せるものではありません 僕が中学生くらいになると ちょっと不思議な父子の距離感が生まれます

当時 我が家にはブラウン管の大きなテレビがリビングに一台 その真反対側にダイニングキッチンがあり 小さなブラウン管テレビがあります ちょうどそのとき 姉は地元を離れ大学生をしていて 我が家では僕が大きなテレビ 父がアンテナをいじくりながら映りの悪い小さなテレビを見る そしてその真ん中のキッチンに母が立ち 食器を洗っている そんな構図が我が家の日常でした

テレビを見るポジションが分かれているのは 父子で別々の番組を見ているからではありません 同じ番組を見ていることが多いのです 遠く離れた場所でお互いに同じ番組を見ながら意見を交わすという現象が日常茶飯事に起きます あーだこーだと家の反対から反対に言葉が投げ交わされ 互いに評論家気取りで話す姿を母はどんな気持ちで聞いていたのか 声が大きいからもっと静かに話しなさいと 今でも帰省して父と話していると 母によく叱られます しかし山田家(仮)では思春期の息子を持つ 父子のコミュニケーションとは こういうものだったのです 今思えば 父なりの思いやりと もしかしたら少しの虞や照れのある中で この形になったのかもしれません 父らしく そんな父が僕は好きです

僕は父を尊敬しています もちろん母もですが

父は山田家(仮)の長男として生まれ 父の父 つまり僕の祖父にあたる人のおかげで 散々な人生を歩んできました そんな話を父は酔っぱらうと度々していました

たとえば父が中学生の時 銀行に家の借金返済を待ってほしいという遣いに行かされたというのです 子供を遣いに出せばなんとかなるだろうという祖父の思惑と そうはさせんと詰め寄る銀行 その時どんなやり取りがあったのか… 父は相当恨みを持っていました

また 父は地元の高校を中退していました なぜかというと祖父が進学させてやれないと言い出したのです 地元の一番の進学校に合格した父でしたが 2年生になることなく中退をさせられてしまいます そんな父はやけになり 家出をして京都まで電車で突っ走るのでした

そののち 京都でつき果て 地元へ連れ戻されます

1年後 父は祖父に頼み込み 地元に戻ってくることを条件に 再度 地元の商業高校を受け 亜細亜大学を卒業しました 父が再びの高校1年生の時 中学の同級生たちは高校3年生でした

大学卒業後 地縁で地元の清掃業者の経理を務めていた父ですが 不正経理を上司に詰め寄って煙たがられ そんなこんなをしているときに 地元の私立高校の教諭の誘いを受けたそうです

とはいえ 教諭になるということに恐怖心があったといいます 教諭という仕事は これからいろんなことを学んでいく子供に接する仕事であるがゆえ ある種の洗脳に近いことも起こせてしまうと語っていました 教育という仕事の責任感を感じていたようです そんな父は採用された一年間は非常勤の扱いで働くことを条件に 高校教諭の道を歩みました

それより先 父は高校教諭として働くのですが 家で晩酌を始めると酔っぱらって僕に 教育論を説き始めます おかげさまで父の教育論が染みついたのか 僕は小学生のころから 学校の先生 という人の言動や一挙手一投足をみて ああいう言葉のかけ方は子供にやる気を持たせるな なーんて勝手に思っていたのでした この父の教育論とそれを子供として現場で確かめられたことは これまた今の僕の仕事に大きな影響を与えています おそらくほかの人よりも圧倒的に早く 教育とは何かを考え テクニックのレパートリーも広げることができました

こんな話を こぼれ話のように断片的に 酔った父から聞かされた子供の頃でした

僕が高校生になったとき それは 父が卒業できなかった高校に合格したときでした 父は自分のことのように喜んでいました その高校を卒業して大学へ進学したときは さらにひとしお 父はよろこんでくれました 父は親の都合で子供の未来を狭めることだけはしたくないと 強く心に思っていたようでした そのおかげで今の僕があります

父の話を振り返ってみると 自分をみじめに思うこともあったかもしれません これまでの人生で 自分に非がなくとも周囲からどんなことを言われただろうか

苦学の末に誠実を貫いた父を 僕は尊敬し 誇りに思っています 自分もそうありたいと思える目標がそばにあることを とても幸せに思っています

いつもnoteで最後に伝えたいことは決まっているし このシリーズを通して伝えたいことも同じなんです 家族が好きで 家族にありがとうと言いたいのです