PROLOGUE はじまりの直島

秋元雄史著『直島誕生』より、「PROLOGUE はじまりの直島」(pp.003-011)を公開します。本記事の末尾には目次も掲載しました。ぜひ御覧ください。

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 瀬戸内海に浮かぶ、人口3000人ほどの小さな島・直島。本州の岡山県と四国の香川県の間に位置するこの島に、現在、年間約72万人もの観光客が押し寄せている。今では現代アートがひしめく島として知られ、国内有数の観光地となった直島に僕が関わったのは、およそ27年前のことだ。
 今の、人が押し寄せる状況を知っている人からすれば想像もできないほど、当時はまったくもって静かな島であった。ほかの島と同様に過疎化と高齢化に苦しみつつ、一方で昨日が疑いなく今日に続いていると確信できるほど、のどかで、のんびりとした空気が漂っていた。周囲に広がる瀬戸内海の穏やかな海に囲まれ、そこにあっけらかんとした光が燦々と降り注ぐ。こののどかさが、いつまでも変わることなく続いていくのではないかとさえ思える場所であった。
 ところがあるとき、ひょんなことから現代アートと関わるようになる。そしてそれ以降、島は大きな変貌を遂げていった。それは、〝劇的な〟とでも形容したくなるような、とてつもなく大きな変化であった。
 そのままでいれば時代の後方についていくのがやっとで、ともすれば忘れられていくしかなかったような島である。それが、あるときを境にどうしたわけか大逆転し、時代の最先端に躍り出ていったのだ。それも日本はおろか、世界的な場所として、である。現代アートという狭い世界のできごとではあるが、諸外国の一流の美術雑誌に取り上げられ、世界の現代アートファンが憧れてやまない伝説的な場所へと変貌していった。
 実際、現代アートファンの多い世界の金持ちを相手にするアメリカの旅行会社は、日本旅行の訪問先として京都とセットで直島を選ぶ。下手をすると、日本旅行の目玉が直島、なんてこともある。なにをオーバーにと思うだろうが、これはけっして噓ではない。よく、日本のなかの価値観だけでものごとを見ていると見過ごしてしまうことがあるが、直島と現代アートもそれに含まれる。

 こう言われても、読者の皆さんはきっと、日本と欧米での人気のズレをうまく実感できないことだろう。これは実際に見てもらうしかないのだが、直島に行くと欧米系の外国人観光客の多さにまず驚かされる。今の直島の文化的な価値を最初に発見し、人気に火をつけたのは、ほかならぬ欧米の人々なのである。それも、芸術家や建築家、美術関係者、学者などの知識層のみによって、ではない。コレクターや文化人、教養人などといった富裕層からも、直島は注目されているのだ。
 日本では、文化的な素養をもった「教養人的お金持ち」がいったいどこに存在しているのか皆目見当がつかないし、話題になることもまずないが、こういう人たちが世界には確実に存在していて、彼らが興味をもつ場所というのも確実に存在する。直島は、そうした場所として今世界的に名を馳せているのである。
 彼らは自分の知的好奇心に素直にしたがい、それを刺激されればどこにでも飛んで行く。それが極東の小さな不便な島であったとしても、なんら障害にはならない。むしろ、ますます強く好奇心を刺激されて、なにがなんでもやってくるのである。
 そうして直島はいつのまにか、ごく限られた人たちではあるが圧倒的に影響力を持つ人たちに深く知られていくことになった。

 直島に限らず、「日本的な価値の再発見」が海外の知識層からはじまるという構図はよくある。19世紀末のヨーロッパで起こった浮世絵ブームなどはそのいい例である。輸出用磁器の包装紙として使用されていた浮世絵をフランスの美術商や専門家が偶然目にし、そのオリジナリティに驚いたことから、浮世絵は世界的な評価を獲得していった。日本人が大好きなフランスの印象派のモネなども、絵画制作上のインスピレーションの多くを浮世絵から受けたと言われている。
 目に見えない価値などというものに端から信頼を置いていない日本人は、自らそういうものを発見することはない。しかしなぜか海外、それも欧米人から言われると素直に価値を認め、受け入れることができる。直島もまさにその構図のなかで評価されていったのである。
 しかし、当初はまったく誰にも相手にされなかった。瀬戸内の風景、過疎化する島、まだまだマイナーだった現代アート。それに、文化財保護の対象にもならないようなごく普通のつまらない家々。いよいよ空き家が目立ちはじめた90年代半ばに、なんとか古い街並みを残せないかと行政に掛けあってみたことがあるが、答えはノー。「保存対象にはならない」という素っ気ないものだった。理由は「どこにでもあるから」。それもある意味では無理もないことだ。当時の直島は、美しい街並みや文化的な雰囲気とは無縁の離島であったのだから。

 島の北側には当時も今も、三菱マテリアルの銅の製錬所が存在する。創業は1917年。ただ、かつては今のような環境意識がなく製錬所から流れ出す亜硫酸ガスで周辺の山々が禿山となっていた。「ほうれん草をひと晩のうちに枯らした」と言われた。大正時代から長く続く銅の製錬事業は、日本の経済成長を立派に支えたかわりに、直島の景色を無残な姿に変えてしまったのだ。
 僕が直島に通いだした91年頃は、まだそういった時代の名残が色濃く残っていた。当時からすでに「美しい瀬戸内の島・直島」というフレーズが使われていたが、それを聞いても僕にはまったくピンとこなかったほどだ。岡山県の宇野港から乗る定期フェリーには大型ダンプが何台も詰め込まれ、見渡す周辺の小島は草一本生えていない赤土むき出しの状態だった。それも、長年風雨にさらされ、岩盤は雨の通り道に沿って削られており、痛々しくその姿を残していた。美しいどころか、疲れ果てた風景だったのだ。
 隣の豊島にしても同様である。産業廃棄物の不法投棄で、土壌汚染に25年間苦しめられていた。公害調停が申請され、最終合意に至ったのはようやく2000年になってからのこと。住民は子どもだましのような甘い話でたぶらかされ、本土から違法業者が持ち込む話にならないような産廃を勝手にぶちまけられていたのである。
 そんなことを聞くと、遠い昔の、それも日本から遠く離れた、近代化に遅れた未開の土地の話かと思うかもしれない。しかし、残念ながらそうではない。ついこの間の日本の、それも高度成長期、日本の都心がもっとも輝いていた時代の、瀬戸内海の島々の話なのである。

 その典型的な島であった直島が自然や文化で注目を集めるようになったのは、ごくごく最近のことだ。時代の変化というのはおもしろいものだなと、今となってはつくづく思う。
 そう、時代が変わったのだ。
 本当に噓のように、そこから180度の転換をした。
 つまり、これまで価値などないと言われていたものに価値が見出され、それを前面に出すことで新しい価値がつくりだされたのである。直島が海外から受けている評価の肝はここにある。かつてはどこにも存在しなかった美的・文化的な価値が、ほかでもない直島で生みだされた。海外の文化人は、このオリジナリティと創造性とを評価しているのだ。
 少しオーバーに言えば、これまで評価されてきた保守本流の美意識とはまったく別の、日本文化の中心から外れた新しいものをつくりだした、ということになる。それも、これまで日本で苦手とされていた芸術文化とまちづくりにおいてである。
 それこそが直島的な価値なのであり、そのプロセスで生まれたできごとのどれもが、それまでにないとてもユニークなものであった。
 直島を評価するフレーズとして、「多くの観光客を呼んでいる」とか「過疎の島を観光で救った」といったものがよく聞かれる。しかし、それはあるできごとの効果にすぎない。本質は、島の創造性にこそある。

 このように直島を一変させたのは、ベネッセという企業と福武財団という財団が中心になって推進してきたプロジェクト(本書では「直島プロジェクト」と呼ぶ)である。どちらもその中心にいるのは、創業者一族である福武家であり、当主である福武總一郎さんである。そこに建築家である安藤忠雄さんやSANAA(妹島和世・西沢立衛)や三分一博志さんなどが関わり、美術では、国外からはウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレル、ヤニス・クネリス、リチャード・ロングたちが、また日本人では草間彌生さん、杉本博司さん、大竹伸朗さん、宮島達男さん、千住博さん、内藤礼さん、須田悦弘さんなどが関わった。
 このプロジェクトに僕は、黎明期の1991年から、地中美術館が完成し、大規模な屋外展「NAOSHIMA STANDARD 2」展が開催される2006年まで、美術担当として都合15年間、携わることになった。本書は、その間に起こったことを、僕というひとりの人間の目線から描き出そうとするものである。
 ちなみに、僕が担当を退いて以降は、アートディレクターの北川フラムさんが美術面を担当している。北川さんは新潟の屋外型アートフェスティバル「越後妻有アートトリエンナーレ」で成功を収めた方で、瀬戸内では直島を含む瀬戸内海全域を担当している。いわば、山の「越後妻有」と海の「瀬戸内国際芸術祭」という二大国際展を、福武總一郎さんと二人三脚となり、まちづくり系のアートプロジェクトとして壮大に展開しているのである。
 プロジェクトがカバーするエリアは、僕が関わっていた直島の一島時代から、現在は16島にまで広がっている。香川県や高松市などの市町村も運営主体に加わり、壮大なスケールのプロジェクトに発展した。もはや第2ステージか、第3ステージか、別次元の様相を呈していると言えよう。オフ・ステージからオン・ステージへと島が変わったのである。

 さて、現在のような圧倒的なスケールで展開する以前、限られたエリアで実施されていたごくごく初期の段階に、僕は現代美術を扱う要員としてこのプロジェクトに関わった。なんとも微妙な言いかただが、今のように企画や運営が整理される前のごく初期段階で、僕はまさにそのような存在として、ベネッセに雇われたのだ。
 それにしても、こういう黎明期、初期段階というのは、実に面白いものである。なぜって、なんでもかんでもやらなければならないから。それは僕ひとりに限らず、このプロジェクトに関わる誰もがそうであった。そんな立場の人間であった僕の仕事を専門職風に言い直せば「学芸員」、英語風に言えば「キュレーター」ということになる。こう言うといかにも今風の専門職的仕事人のイメージで、なにかそれに対応する組織がしっかりあるような雰囲気だが、実際にはまったくそんなことはなかった。雇う方も雇われる方も、その意味するところを理解しておらず、互いにヤブのなかで仕事をするがごとく、とても一言では言い表せない混乱と激動のなかにあった。
 言い換えれば、コースもはっきりしないマラソンを全速力でやっているような、体力と知力と根性が同時に試される、楽しくも苦しい日々であった。
 そんな日々を過ごすなかで僕は、ごくごく初期段階の直島の姿、そして現在の直島の原型が生まれていく様子を、この目で目撃した。それは、とても美談では片付けられないような、七転八倒、悪戦苦闘の壮絶な歴史である。今ではほとんど語られることのないこの物語の顛末を、このプロジェクトに関わったひとりとして、ありのままに話してみたいと思う。

 ものごとには、はじまりがある。そして、そのはじまりがどんなものであったかで、その将来の姿が決まると言われる。つまり、はじまりを見れば、そのものの本質が見えるということだ。その観点から言えば、はじまりの直島でどんな時間が過ぎていたかを振り返るのも、あながち意味のないことでもないだろう。
 それでは、どんな直島時間が流れていたのだろうか。時計を27年前に巻き戻してみよう。
 まちづくりか、企業の宣伝か、それともアートの実験か?

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直島誕生』目次

PROLOGUE はじまりの直島

第1章 「直島」まで
理想と現実のはざまで/「普通」ならざる求人広告/「よく生きる」という企業哲学/アートの原体験/アートの世界へのめり込む/描き続けて身につけた「物の見かた」/特別に課された〝追試〟

第2章 絶望と挑戦の日々
社会人の〝洗礼〟/ベネッセ推進室での日々/最初の仕事/〝異色〟のアートコレクション/作品は芸術か、それとも資産か/初めてのニューヨーク出張/ニューヨークの〝独立〟した現代アート/消えない温度差/社内に現代アートを持ち込みたい/「新・社内展示」全貌/福武さんからの呼び出し/直島とベネッセ・安藤忠雄をつないだキーパーソン/決済を待ちわびて/変貌前夜の直島

第3章 暗闇のなかを突っ走れ
嵐のオープニング/直島の〝異端〟な安藤建築/ギャラリーに閑古鳥が鳴く/初めて通った展示企画/徹夜の設営/悪夢のネオン管/突然の禁止令/妙案に次ぐ妙案/〝ルール外〟の展覧会/展覧会主義からの脱却/世界と直島の出会い/世界に仕掛けた展覧会/「ベネッセ賞」という戦略/直島のアートをつくる/常識の〝外〟に光を当てる/ホテル美術館論争/ビジネスの世界から遠く離れて/安藤建築への挑戦/〝直島らしさ〟の肝とはなにか

第4章 現代アートは島を救えるか
戦前から続く地下水脈/直島の基礎をつくった三宅町政/直島を形成した石井建築/空き家問題/生活と地続きのアート/出会うべくして出会った建築家/宮島達男を口説きにジュネーブへ/最高のアイデア/『角屋』が変えたもの/安藤忠雄みずから手をあげた『南寺』/場所の意味を掘り起こす/タレルの精度/無事『南寺』オープンへ/三つめの「家プロジェクト」/内藤さんの厳密さ/「家プロジェクト」が生み出したもの/「家プロジェクト」を進化させる/直島の日常をアートが掘り起こす/アートを通して変わり行く人々

第5章 そして「聖地」が誕生した
株主が放った想定外の質問/直島事業廃止の危機/新社長の経営改革/直島のアートに起きた変化/人間の根源を問うアースワーク/時間と空間を体で感じる「ライトニングフィールド」/ジャッドの聖地マーファ/タレルの素顔/予期せぬ「来客」/モネを直島に置けるか/モネを現代アートに取り込むために/モネの解釈を先にすすめる/出発点となった「共通の問い」/デ・マリアとタレル/モネが考えた「空間」/動き出した建築プロジェクト/場所の決定、そして建築のオリエンテーション/安藤建築の文脈のなかで/直島プロジェクト最大の任務/モネがもたらした視覚上の革命/白色のキャンバス/はじまりの正三角形/重力で世界をはかるデ・マリアのプラン/科学と芸術が交差する場所/視覚を揺さぶるタレルのプラン/オープン間近の慌ただしい日々/そして、地中美術館オープンへ/確かに感じた直島の変化

EPILOGUE まだ見ぬものを求めて
「現代アートの島」への脱皮/福武さんとの訣別/最後の砦/次の場所へ

おわりに
安藤忠雄氏による特別寄稿
直島に関する参考資料

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『直島誕生――過疎化する島で目撃した「現代アートの挑戦」全記録』
著者:秋元雄史
定価:1,600円(税抜)
発売日:2018.7.12
判型・ページ数:四六判・ソフトカバー/400ページ
ISBN:978-4-7993-2321-2
発行:ディスカヴァー・トゥエンティワン

【著者プロフィール】
秋元雄史(あきもと・ゆうじ)
東京藝術大学美術館長・教授、練馬区立美術館館長
1955年東京生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科卒業後、作家として制作を続けながらアートライターとして活動。新聞の求人広告を偶然目にしたことがきっかけで1991年に福武書店(現ベネッセコーポレーション)に入社、国吉康雄美術館の主任研究員を兼務しながら、のちに「ベネッセアートサイト直島」として知られるアートプロジェクトの主担当となる。2001年、直島のアイコン的作品である草間彌生『南瓜』を生んだ「Out of Bounds」展を企画・運営したほか、アーティストが古民家をまるごと作品化する「家プロジェクト」をコーディネート。2002年頃からはモネ『睡蓮』の購入をきっかけに「地中美術館」を構想し、ディレクションに携わる。開館時の2004年より地中美術館館長/公益財団法人直島福武美術館財団常務理事に就任、ベネッセアートサイト直島・アーティスティックディレクターも兼務する。それまで年間3万人弱だったベネッセアートサイト直島の来場者数が2005年には12万人を突破し、初の単年度黒字化を達成。その後、2006年に財団を退職して直島を去るが、落ち着く間もなく翌年、金沢21世紀美術館館長に就任。国内の美術館としては最多となる年間255万人が来場する現代美術館に育て上げる。10年間務めたのち退職し、現在は東京藝術大学大学美術館長・教授、および練馬区立美術館館長を務める。著書に『おどろきの金沢』(講談社)、『日本列島「現代アート」を旅する』(小学館)、『工芸未来派 アート化する新しい工芸』(六耀社)等がある。

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