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🇯🇵集団主義社会に生きる

私は小中学校でずっと「協調性」が大切と言われて育った。

人によって捉え方の違う道徳や国語に明確な答えがあって、正しいとされることが1つしかなくて、

「間違える」のを恐れるようになって。


言われる言葉はいつも「普通で良いから」だった。

生きていく上で大切なのは周りに合わせることだと。協調性こそが社会に出ても必要なのだと。

人に優劣はないのだと。

そして周りに合わせてとりあえず笑う人間になった。「よく笑うね」って言われて褒められているのだと思っていた。


高校に入ると私の無意識な笑顔は徐々に、
「ヘラヘラしている」「真面目にやれ」と言われるようになった。


私は高校の部活を楽しいと感じたことがなかった。

チームスポーツという名の集団主義教育だ。

チーム内で重要視されるのは
「才能」や「技術の高さ」ではない。
休養の多い「自己管理能力」でもない。

「どれだけ練習したか」だ。

言い換えれば、
毎日休まず部活に参加したかどうか、だ。


「休むこと=悪」となり、オフは決まって週1回、それ以外に自分だけ部活を休むことがあると「サボり」だと、どこかで見られているような気がした。


「みんな残って自主練してるから私もしなきゃ、」って、集団に合わせて自分の身体に鞭を打つようになった。

学生は集団でのボス(監督)の顔色を伺って、表面上の技術ばかりを磨いて、心や身体がボロボロになるまで自分を追い込むようになる。

それを大人は「美徳」とすら思ってる。

結果が全てではないよと。
みんな平等だよと。
頑張った人ほど評価するよと。

そうして、
生徒たちは辛くても必死に笑顔を作って耐え、誰もが努力すれば上手くなれると信じてる。


しかし公式試合で重要視されるのは
「才能」や「技術力」であって、
十分な休養をとった「体調管理能力」であって、

「どれだけ努力したか」ではない。
下手くそは試合すら出させてもらえない。


そうやって、
自分を犠牲にして周りに合わせるべきなのか、やはり結果が全てなのか、わからないまま高校や大学まで生きていく。


そんな学生たちがぶち当たるのが「就活」の壁だ。


企業の人事部が求めるのは他と違う「個性」であって、他人と同じような人は気にも留めない。エントリーシートの段階で篩にかけられ落ちていく。

皮肉なことに人事が求める「個性」というのは「学生時代の他人と違う行動」であって、見た目で個性を出すと面接で落ちる。見た目は何故か黒のスーツに就活用の薄いメイクというのが暗黙の了解だ。


そして社会に出た頃また「協調性」は社会人としての常識と言われる。「できない奴に仕事はない」「自分で考えて動け」と結果だけは個人の責任にしながら。


当たり前だが集団主義の中で育つと
自分で考えることが苦手になる。

「今の若者は自分で考えることができない」
と言われるのは当然だ。


今まで親や先生、監督や人事、、誰か大人の顔色を伺って、彼らの求めていることをして生きてきたのだから。それが正解だったのだから。

それを急に「自分で考えろ」と投げ出されているのだから。

当たり前だが集団主義の中で育つと、
断ることや争いを避けるようになる。


こうして私のような「笑顔」で何でも乗り切る人間が出来上がる。

人に侮辱されても、
差別的な言葉を言われても、
セクハラをされても、
泣きたい時でも、
怒ってる時でも、
どんな辛い時も「笑顔」が1番に出てくる。

場の空気を乱さないよう、精一杯の笑顔で乗り切るようになっている。断ることすらも、全て相手との今後の関係を考えると怖くてできなくなる。

そして一人になると涙が溢れる。「なんで笑ってたんだろう」って、自分の笑顔すら嫌いになったことも何度もある。


集団主義が全て悪いと言いたいわけじゃない。

言いたいのは、
都合の良いところだけ成果主義という西洋の文化を取り入れて、それに順応できない人が「悪い」かように社会が扱うのはどうなのか、ということ。

アメリカの個人主義文化の一部だけを集団主義の日本社会に急に持ち込んでも、どこかで絶対に歪みが出る。少なくとも私が育った田舎の教育現場では集団主義が美徳であり、周りに合わせられる子が正解なのだから。


「I」が主語か「We」が主語か。

はっきりしないままでは二重人格者のように、場所や人によってアイデンティティ自体を切り替える若者が増えてもおかしくない。

これを一人ひとりのメンタルケアの話で片付けるのではなく、日本で自分を愛するのと同じように集団の全てを愛することができるように、自分の幸せは社会の幸せだと心から思えるように、社会の歪みを変えないといけない気がしている。



(異論は認めます。)


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