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私の思いの原点

幼少期の頃の思い残しって誰しもが、何かしら持っているのではないかと思います。



私は、結婚して子どもを産み、あたたかい家庭を築きたい。

そんな夢をいつからか持ち


20代前半からなぜか、
出産へのタイムリミットを気にしながら、結婚ができないことへの焦りがずっとあり


だからこそ、
目の前のお付き合いしている男性など
その人自身ではなく


その先の『結婚』というモノを観ていたように
今はそう思います。


私の中でも、気付けなかった

『子どもを産みたい』
『育てたい』
という気持ちは

私に甥っ子、姪っ子ができてから一層その気持ちが高まりました。


なぜならなんせ、
とてつもなく可愛い。

幸せに育ってほしい。

という気持ちが心の底から湧いてきて

それをまた自分の状況と置き換えて
自分が育てるなら


『自立した自分で物事を決めて、納得いく人生を歩める人に育てたい』


そんな気持ちが出てきていたのです。




でもそれは、言い換えれば


私自身の幼少期の頃の、思い残しだったことに気付きました。



『人の顔色ばっかりみて子供の頃過ごしたくなかった』
『もっと自分らしく、自分で物事を決めて生きれる人でありたかった』


という、後悔が残っていたんです。
だからこそ、自分と同じように大切にしたいと思うであろう子どもには、自立して育ってほしい。そう願ってていたのでしょう。


それは、
私の幼少期の後悔であり
思い残しでありました。


だから、どこか両親を恨んでいました。


いつも私の目から観たら、
不安そうにみえてた両親を。

ご機嫌取りをし、
どこかしら両親の顔色を伺って生きていた私は
今となっては、不安そうだった両親をどこかしら恨んでいて、それを後悔としていました。


でもその時その時で、両親は必死で子ども3人を育ててきてくれてたんです。


自分の立場
両親の立場


それぞれの立場があり
それぞれ思うことがあり


私の立場からその環境でいた時
私は不安に思って
一生懸命、自分の居場所をつくることに必死で


両親には両親の立場があり
その時その時で、その時の一生懸命で大切に育てようとしてくれてた。
それは事実です。



でも私の願いとしては
『居場所が欲しかった』
ということ。


それは
『安心できる居場所』
でした。


子どもは、何気に親の本質を見抜いている気がします。


言葉では、
『楽しいね』
といってても

心の奥でツラそうだったり、
不安そうだったり


そういう顔の方を瞬時に判断して
見抜いている気がします。


だからこそ、
私がいま必死でやろうとしていること


『安心感を与える人であること』


その幼少期からの出来事のおかげです。

依存して生きることは
自分の道を生きれなくて、必死に自分探しをして生きる人生になってしまうこと

安心した居場所がないことは
常にどこかしら不安に思ってしまうこと


そんなことを肌で感じれているからこそ

私は今


自分の心を常に安心で満たしたい
安心した気持ちは周りの人をも安心させ
それがその人の居場所になるということを

身をもって経験できたから。


幼少期の出来事は
今では、私のどうやって行きたいか?
その答えのギフトです。


たとえ、今子どもがいなくても
たった今から私が出来ることは


私の存在で人々を安心させる。


それは、自分自身への在り方で
すぐさま実践できるということ。



だから私は、昔から無性に
自分の在り方への追求をしているのでしょう。

やはり、
自分ありきで
自分が幸せじゃないと
人を幸せにできない

毎度毎度、そう思うのです。




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