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【エッセイ】あなたの「ただいま」は、最高の贈りもの

#SHElikes #WEBライティング  エッセイライティング課題文を改訂したものです。(3584字)

最近、人にプレゼントをもらったり、贈ったりする機会がめっぽう減った気がする。

ここ3年間の間、私たちの生活様式がガラリと変わってしまい、とにかく「人と会うこと」がリスクの何者でもないと考えられている。
突如現れた得体の知れないウイルスは、あっという間に世界中に広まり、私たちの人間らしい「繋がり」というものを徹底的に破壊してしまった。

誰かと顔を見て話をしたり、触れ合ったり、歌ったり、一緒にご飯を食べたりすることが危険とされ、「何かを隔てて」しなければいけないという最も厄介な制約を必要とする生活を私たちは送らなければならない。

人と触れ合ってはいけないということは、言い換えると、私たちが余暇として楽しみにしていること全部ができなくなってしまうということ。
パーティーも、旅行も、飲み会も、コンサートも、日常生活の「息ぬき」=余暇としての楽しみが否定されてしまうということを意味している。

STAY HOME、ソーシャルディスタンス、黙食、旅行自粛、、、
この3年間に生まれた多くの言葉が、私たちの行動と思考、感情をかちんかちんに固めてしまい、今更元に戻るのはなかなか難しい。
行動を元に戻すというのは、けっこうなエネルギーを必要とするのだ。

人に会わないということは、贈り物をするチャンスもなくなってしまう。
この数年間で、「やらなくなったこと」を急激に戻すことがとても難しくなってしまった。
「タイパ」「コスパ」が優先され、無駄が省かれることを良しとする空気が優勢になってしまってはいないだろうか。

贈り物をするということは、その人に会うという時間に向かっていくということ。
その人のことを思って、何が欲しいかを考え、準備をする。
純粋に、相手のことを思う。
感動したこと、好きなことを、分かち合いたいと思うから、私たちは贈り物をする。
そのような気持ちすら、無駄と切り捨てられてしまうのだろうか。

プレゼントの天才は、子どもだ。

子どもは、自分が感動した日常のあらゆるものを大好きな人に見せたい、プレゼントしたいと思っている。

公園で綺麗なたんぽぽが黄色い絨毯のように咲いているのを見ると、たいていの子どもはわあと言って駆け出し、「ママにあげるのー!」と言って、黄色い花束を作りはじめる。
うちの子どもも、例外ではなかった。

ぶちぶちと手で茎をむしり取るものだから、白い汁がたくさん出たり、なんとも言えない匂いが手のひらにつくというのに、全くお構いなしだ。

真っ白なTシャツに、緑やら黄色やら、カラフルな汚れが広がり、手のひらは草の汁と汗とでベタベタだ。
家に帰ったら、こりゃお風呂行きだわ。
時々こちらの様子を伺うように笑顔で手を振る子どもを眺めつつ、ついつい、苦笑いをしてしまう私。

自分で満足がいくまで野の花をつみ、満面の笑顔で差し出された黄色の小さな花束。
ベタベタだろうが、虫がついていようが、小さな暖かい手の温もりで、ふんにゃりしている花束でも、彼の「まごころ」が込められているのだから、貰わないわけにいかないのだ。

「ママ、はい、プレゼント。」

「わあ、ありがとう。うれしいな。」

大袈裟に喜んでみせると、黄色い花に負けないくらいの笑顔がパッと咲く。

ママは、お花より君の笑顔の方が断然嬉しいんだよ。。。言えないけどね。

小さな手から受け取った、小さな花束を持って家路を急ぐ。

散歩の後小さなビンにその黄色い花束を入れる。

「こんなキレイなお花、パパにも見せたいね。」

そう言って、小さな贈り主は満足そうにその小瓶の花束と、私の顔を交互に眺める。

でも、日が暮れてパパが帰ってくる頃、その小さな花束は予想に反して、緑色のつぼみだらけになってしまった。

さっきまで咲いていた黄色い花が、この先ずっと咲いてくれることを願った贈り主は、肩を落として、その花瓶を見ようともしない。

「ずっと咲いていてくれると思ったのに。。。大丈夫だと思ったのに。。。」
「ママ、パパも悲しいよね。僕のせいなのかな。。。」

 萎れた顔で、半泣きになりながら、ソファの毛布にくるまり、たんぽぽの硬いつぼみのように、彼はそこから出てこなくなってしまった。

そんなことはないよ。
贈り物というのは、未来永劫、その人のそばにあるわけではないから。
その気持ちが、とっても嬉しいんだよ。

私は、毛布にくるまった彼の背にそっと手を置いた。

こんなことを繰り返しながら、子どもは贈ること、贈られることの喜びと意味を知っていくのかも知れない。

純粋に、誰かのことを思い、その人が喜んでくれるもの から、
その人が欲しいと思うもの、さらに、その人に身につけて欲しい、
ずっと持っていて欲しいものへと、贈り物の価値観は年齢とともに変化していってしまうけれど、贈る、贈られる喜びはずっと変わらないはずだ。

しかしながら、大人になった私たちは、贈り物をしない口実を見つけようとしてしまう。

何か欲しいものはない?と聞かれても、

「今、欲しいものもないし。。。」
「そんなところに、お金をかけなくても良いよ。」
「私にプレゼントするなら、その分あなたのために使いなさい。」

こんなことを言いながら、贈り物をする、受け取るという面倒から逃れようとしているのかも知れない。

贈り物をもらったら、何かを返さなければいけないとか、そんな打算的な考えも
うまれてきたりして。

毎日そばにいる人間に、心と時間とお金を費やして特別なものを選ぶなんて、考えてみるとハードルが高い。

大人になると、なぜ贈り物が面倒になってしまうのか。

それは、「相手との距離が、近すぎる。知りすぎているから」だ。

大切な人に何を贈れば良いかわからないということは、相手のことが見えなくなっているだけではなく、自分自身もわからなくなっているということなのかも知れない。

そんな毎日のルーティンから離れるためには、一人旅に出ること。

旅に出ると、非日常の中で、子どもの頃のようにワクワクしたり、ドキドキしたりする感情が蘇ってくる。パートナーや家族と離れる一人旅では、なおさらだ。

一人でいることで、家族と距離を起き、気づいたら「今何してるだろう?」と思ってしまっている。
「この景色を見せたいな」
「この美味しいものを、食べさせてあげたいな」
「今度は、ここに連れてきてあげたいな」
離れているはずなのに、自然と大切な誰かを思い出してしまうのだ。

見知らぬ土地で出会ったものや人、景色、味。それを誰かに伝えたい、シェアしたいと感じるから、私たちはお土産を買いたいと感じるのかも知れない。

お土産の後ろには、贈ろうとする相手が必ず見えているはずだ。
値段や大きさよりも、「この人にはこれ」というものを探しだすことが、旅の楽しみでもある。

一人になって、親しい人や家族の存在を違う視点で見る。

もらった人はどんな表情をするだろうか。
喜んでくれるだろうか、それとも驚くだろうか。

私が良いと思ったものが、相手の驚きや喜びを引き出す。
その企てが成功することを期待して、私たちは贈り物を選ぶ。

私が感動したものを、大切なひとにプレゼントしたいと思うあの純粋な感情を
思い起こすには、旅に出るという行為が最も効果的なのかも知れない。

非日常に自分を置き、見知らぬ土地でさまざまな人と出会う。
この過程で、萎れかけていた心に栄養を与えていくことができれば、
あなたのそばにいる誰かのことをもっとよく見て、感じて、理解することが
できるようになるかも知れない。

目に入るもの全てが新しく、ワクワクして輝いていたあの頃のように。
もう一度、そんな感情を呼び戻すために、私たちは旅に出るのだ。

旅を終えて帰ってきたあなたは、出かける前のあなたとは違っているはず。
旅に出ることが、すなわち自分自身に対する大きな贈り物でもあるから。

自分を大切にすることができる人は、相手も大切にすることができる。
そういう人が選んだ贈り物であれば、間違いなくあなたの大切なひとも幸せにしてくれるに違いない。

子どもが家を出て 仕事を持ち、自立して自身の生活をおくることも、長い長い、人生の一人旅の行程なのかも知れないと、最近は思えるようになった。

離れた場所で、がんばっているあなた。
夢を叶えるために、今必死で生きているあなた。
そんなあなたが待つふるさと、あなたを待つ家族のことを、
時には、ふと思い出してほしい。

その顔が思い浮かんだら、何かひとつ贈り物を携えて 
今年こそ会いにいって欲しいのだ。

あなたのステキな笑顔と、感謝の言葉、人生を豊かにしてくれた旅のお土産話が、本当は家族にとっては一番の贈り物だということも、お忘れなく。

あなたの「ただいま」を 心待ちにしている人がいるはずだから。

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