記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

【読書】 『関心領域』 THE ZONE OF INTEREST

おはようございます。

今、巷で話題になっている映画 『関心領域』。地元でもようやくミニシアター系で公開されています。

予告編や、観にいった方の多くのレビューを読ませていただきましたが、
本編の恐怖に耐えられる自信がこちとらありませんでした。
ですが、内容はとても気になる。

と言うわけで、元になった小説を読んでみました。

(これ以下、ネタバレがあります。)



映画をご覧になった方は、「小説とは別物」と思われた方が多かったようだ。

私はまだ映画を見ていないのだが、
小説の凝縮されたエッセンスを、映像と音の世界で淡々と見せ続けるのが、映画版であると捉えている。

映像と、音。
視覚、聴覚に直接訴えるために、ストーリーをシンプルにする必要があったのだと思う。

小説の『関心領域』は、登場人物がとても多く、それぞれの登場人物が、複層的に絡まり、多層に重なっている物語であるように感じられた。

小説の中心になるのは、収容所の所長であるパウル・ドルではなく、その妻、ハンナそして彼女の愛人となるトムゼンだ。
映画版では、パウル・ドルと、ハンナと家族が中心で、そんなに登場人物は多くない。
小説版では、この家族を取り囲むように、かなりの登場人物が関わり、その中の数人の視点から描かれる章で物語が進んでいくため、一度読んだだけでは、誰が誰だかわからなくなってしまった。(2回くらい読むと、分かってくるが)

この家のユダヤ人の使用人、さらに、収容所内で、遺体処理に関わらなければならないユダヤ人男性 など、「人間としての理性」や「正しさ」を持っていては、正気を保てないような仕事に従事させられる人々の章もあり、最後までどう繋がっているのかが見えにくいことも、読むのに骨がおれる理由なのかもしれない。

さらに、妻のハンナと、トムゼンが出会い、逢瀬を重ねる中で、この2人の中に、ある「正しさ」が芽生えてくる。
戦争中であり、女性であるハンナが「タバコを吸う」ということは、戦時中に「あるまじきこと」ではあるが、この2人は、こっそりと隠れて語り合い、タバコを吸う。

私たちが「正義」としてやっている「収容所内での行為」は、果たして正しいことなのだろうか。
この戦争は、必ず勝つと信じられているけれど、本当は違っているのではないか。

ハンナの結婚は、間違ったものであること。
本当に彼女が心身ともに捧げた男性は、ティーダー・クリューガーというドイツ人の共産主義者だったことが、次第に明らかになっていく。

最初の出会いは、性的なものから始まった2人ではあったけれど、
その関係は、まやかしばかりの社会や家庭の中で、唯一「本当の恋愛」へと変化していくのだ。

「正気を保っている」と一番口にしていた夫のが、薬物使用をしていたり、使用人のユダヤ人女性を性慾の吐口にしていたりと、一番まともではない。
なぜなら、そうでもしないと、「まともな人間」では耐えられないような、「異常な任務」を引き受け続けることはできないからだ。

ユダヤ人を殺すことにより発生した土壌、水質汚染をひた隠しにし、次々に運ばれてくる何の罪もない多くの人々を、どれだけ手間をかけず大量に殺すことができるのかを考え続けたドルは、最終的に「人間としての尊厳」や「人間としての理性」を壊されて、正気を保つことができなくなっていく。

妻に相手にされず、手当たり次第に「弱い立場」の女に手を出し、最終的には
妊娠させ、麻酔も使わずに堕胎させるような最低な男。

彼の精神の崩壊と引き換えに、この家族が手にしている平穏で豊かな日常。

殺された人々から剥奪した様々なもの、家具や貴金属、衣類などを、日常的に浪費し、一見豊かな暮らしをしているこの家族。
家の隣で起きていること、家の主人が関わっている残虐行為によって、この家が成り立っているという事実から目を背けたまま、何事もなかったかのように生活して
いる、そうしていかなければならないのだ。

結果として、ナチスドイツのユダヤ人隔離政策は、ユダヤ人だけではなく、ポーラント人、ひいては、ドイツ人の中でも、社会主義者、共産主義者はどんな人種であれ迫害、投獄された。

1943年にドイツが大規模な軍事的敗北を被ったことを知っているのは、ハンナとトムゼンくらいのもので、それを口外することは決してできなかった。

その後、ヒトラーは自殺、国防軍による降伏により、連合軍が戦争犯罪人の裁判を行い、所長のパウル・ドルを始め、それに関わった登場人物は裁判により刑死することになる。

妻のハンナと双子の娘は、戦後も生き続けるが、トムゼンは、刑死は逃れることとなり、アメリカを中心とした連合軍の人間として働くことになる。

叔父の亡き後、トムゼンは、残された叔母に会いにくるのだが、本当の目的は、ハンナを探し出し、再会することだったのだ。

物語のラスト、彼らは戦後大きく変わってしまったドイツで再会するのだが、
未亡人になった彼女ともう一度やり直したいとするトムゼンの申し出を、ハンナは断ってしまうのだ。

あの忌まわしい戦争によって、私たちは変わってしまった。
あなたに会うことによって、ドルがまた自分の所にやってくるような気がして怖い。
だから、あの頃のようにあなたと接することはできない。戦争によって狂わされてしまった私たちが、あの異常な社会で出会ってしまったから。
あの時代は、もう終わったことなのだから。

そう言って、ハンナは、トムゼンに別れを告げた。



誰もが正気を保っていられないのが、戦争。

加害者である者、被害者である者、双方が、見てみぬふりをする。

偽りの社会、偽りの関係の中で、はっきりとしていることは、
生きるか、死ぬかの選択だけである。

正気を保つことができなくなる恐怖に打ち勝つというよりも、それを打ち消すことができるのは、理性なんかない性欲だ。

生き物は、生き死にがかかるとき、何としてでも自分の子孫を残そうとする。
その「欲」こそが、性欲であり、獣としての本能が働かない性行動に人間を突き動かすのだ。

性行為そのものに、人間としての感情があるか。
略奪されるものは、略奪者によって、モノだけではなく、体も、魂も、全て残らず陵辱され、奪われ、殺されていくのだ。

そんな残虐なことをしている人間が、家族であったら?
大量殺人工場が、知らないうちに隣家にあったのだとしたら?

世の中や社会が「正気を失なっていく」その過程にあるのだとしたら、
毎日、世界のあちこちで起きている戦争の画像を、
何も考えず、食卓でぼんやりとみている私たちに、この家族を非難することが果たしてできるのだろうか。

見えるものを見えないと思い込み、自分の関心に入れない。
そのことで、「平和」が保たれているとしたら、
私たちは、悲鳴や銃声、黒々とした煙を見ながらも、日常を送っている
この家族と何ら変わらないのだ。

正しいことを正しいと言えなかった時、不倫という「正しくない」関係で出会った二人が、戦争の行末を正しく見据えていたという皮肉。

ラスト近くで、1948年のイスラエル建国に向けてのイギリス、アメリカの動きにも触れているが、現在のイスラエルのガザ侵攻が予言されているようで、背筋が寒くなった。

ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、どちらの戦争も、泥沼化し、先が見えない。

私たちの「関心領域」は、一体どこにあるのだろうか。

私たちの「正気」を保つために、
どれだけのことを切り捨てて、他人事として捉えているのだろうか。

”国民社会主義のもとで、人は鏡の中におのれの魂を見た。おのれ自身を見出した。これは特に犠牲者、つまり1時間以上生きて自分と向き合う時間のあった人たちの身に、より確実に起こった。(略)
 おれたちはみな、自分の正体に気づかされるか、なすすべもなくさらけ出された。
 人のほんとうの姿。それを映し出すのが、重要区域だった。”

『関心領域』P430 ,L9ー15

「私は悪くない。」
「関係ない。」

そう言ってやり過ごしてきた自分の喉元に、
無言でナイフを突きつけられるかのような、
そんな恐ろしさを感じた小説だった。

歴史は、終わったことではない。

今なお、あなた自身に続き、
未来に繋がっていくものなのだから。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートありがとうございます。頂いたサポートは、地元の小さな本屋さんや、そこを応援する地元のお店をサポートするために、活用させていただきます!