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観てきた!「もうひとつの歌川派?!  国芳・芳年・年英・英朋・朋世~浮世絵から挿絵へ……歌川派を継承した誇り高き絵師たち~」展 at 弥生美術館

2月末より、軒並み臨時休館となってしまった美術館・博物館ですが、小規模な館や私設館を中心に営業を続けているところがあります。文京区、東大の近くにある弥生美術館もその一つです。

この展覧会は、原宿の太田記念美術館と連携した展示内容で、スペースは大きくないですが見ごたえがあり、かなりじっくりと鑑賞してきました。

今、お出かけするかどうかは、ご自身で判断いただきたいですが、わたしは、こういう時期だからこそ、アートにふれる時間が大事だなぁと思います。

会場:弥生美術館 (東京・根津)
会期:2020年1月7日(火)~3月29日(日)
時間:10:00~17:00 ※入館は閉館の30分前まで
休館:月曜
料金:一般900円、大学生・高校生800円、中学生・小学生400円
  (隣接する竹久夢二美術館も鑑賞可)


◎観に行こうと思ったきっかけ

臨時休館前に太田記念美術館を訪れたとき、館内に貼られたポスターで開催を知りました。鰭崎英朋(ひれざき えいほう)さんの作品が期待以上に素敵で、その余韻に浸っていたところだったので、”鰭崎英朋さんのことをもっと知りたい!これは弥生美術館も行かねば!”と。

弥生美術館の館内にも、太田記念美術館の告知が出ていました。チケットの半券を持参すると割引になるんですよ。

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◎どんな展覧会?

歌川豊春から始まる浮世絵界最大の派閥を「歌川派」といいます。豊春から豊国へ、そして国芳から芳年へと枝分かれし、さらに年方→清方→深水へと続く華やかな系譜がよく知られています。
しかし、この他にも優れた歌川派の系譜が存在するのです!
それが年英→英朋→朋世の系譜です。明治・大正・昭和の時代にそれぞれ活躍し、絶大な人気を得た彼らの類まれなる才能は、このまま忘れ去られるにはあまりに惜しいものがあります。市井の人々の支持を得て町絵師として生きた国芳や芳年の気骨は、むしろ、年英、英朋、朋世にこそ、脈々と受け継がれていったと言えるでしょう。
浮世絵から挿絵へ……歌川派を継承しているという誇りを胸に掲げ、挿絵の世界で大きく羽ばたきながらも、時の流れに埋もれてしまった絵師たち。知られざる「もうひとつの歌川派」が今、鮮やかに甦ります。
弥生美術館 公式サイトより)

そうなんです。歌川派には”二つ”あったんです!!!
でもなぜ、清方さんは有名なのに、英朋さんは忘れ去られてしまったのか・・・それは、口絵から日本画に転向したか、口絵作家の道を究めたか、の違い、そして口絵の隆盛とも関係していました。

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弥生美術館では系譜に沿って、各作家の経歴と作品が展示されています。特に英朋さんと、その師匠である右田年英さんについての展示が充実していました。

江戸時代末期 歌川 国芳(1798-1861)
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幕末から明治 月岡 芳年(つきおか よしとし)(1839-92)
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明治から大正 右田 年英(みぎた としひで)(1863-1925)
  ↓
明治から昭和 鰭崎 英朋(ひれざき えいほう)(1880-1968)
  ↓
大正から平成 神保 朋世(じんぼ ともよ)(1902-1994)

わたしは個人的に、誰と誰が師弟関係だったか、とか、友人・知人、ライバルだった、とか、作家が生きていた時代に何があったか、どんな出会いがあったか、が気になるタイプなので、今回の系譜を追う展示形式は興味深くて、とても楽しめました。

◎音声ガイドやグッズは?

音声ガイドはありませんが、展示室には解説パネルが充実しています。
ただし混雑してしまうとちょっと読みづらいかも・・・

展示は時系列順に、1階→2階と並んでいます。鰭崎 英朋さんから以降の年代の展示は2階に、右田 年英さんまでは1階に展示されていました。
(ちなみに、2階へは階段でしか行けなさそうでしたのでご留意を。)

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グッズは1階のロビーのスペースでどうぞ。
太田記念美術館でも販売されていた図録(確か¥1,800)や、展示作品の一部がポストカードとして販売されていました。
その他、隣接した「竹久夢二美術館」で鑑賞できる、竹久夢二さんのイラストや銀座千疋屋のパッケージデザインのグッズ、3階に常設展示されている、大正末〜昭和初期に一世を風靡した挿絵画家・高畠華宵(たけばたけかしょう)さんのポストカード、さまざまな書籍なども手に取れますよ。

ちなみに、館内にロッカーはありませんが、コートや大きめの荷物は、館内入ってすぐの受付で無料で預かっていただけました。ありがたい!!!

◎そもそも鰭崎 英朋(ひれざき えいほう)さんってどんな人?

鰭崎英朋さん(1880/明治13-1968/昭和48)は、東京・京橋の生まれ。
館内の展示パネルに丁寧につづられた英朋さんのエピソードからは、その素敵な人柄がうかがえました。

と同時に、懸命に日々を過ごしていたからこそ、大切な出会いやチャンスを引き寄せられていたんだろうなぁ、と思うような内容でもありました。

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英朋さんが生まれたとき、父親はなんと行方不明。母親のラクさんは16歳で、シングルマザーでの子育ては非常に難しかったため、母方の祖父母に育てられます。8歳で築地明教学校に入学する頃からすでに絵を描くことが好きで、学校卒業後は昼は漢学と算段を学び、夜は祖父の仕事を手伝う、という、本当に良くできた少年でした。

その評判が、夜鳴き蕎麦の主人から日本橋区蠣殻町:かきがらちょうにあった履物商竹下家の番頭さんへ、番頭さんから主人の嘉三郎さんへと口コミで伝わって、12歳の時、7年の約束で年期奉公をすることに。奉公先でもみんなに可愛がられ、よく働くので信用を得て、16歳で番頭さんにまで出世するのです。

ここまでに描かれたであろうスケッチ帳の絵たちは、独学だとは思えないほど上手なものでした。とても小学生くらいの子が描いたようには見えない出来栄え。当時からすでに高い画力と鋭い観察眼を持っていたようです。

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師匠である浮世絵師・右田年英さんとの出会いも、人づての紹介でした。描いた絵が、お店のお客さんの目に止まったことが縁となって、右田年英さんを紹介されるんです。このとき年英さんは34歳、すでに新聞で挿絵の連載を持つ人気画家でした。お店の主人は、英朋さんの大事なチャンスだと思ってくれたのでしょう、残り2年の年期奉公を免除してくれて、英朋さんは17歳で入門することとなります。

1901/明治34年には鏑木清方さんらと、浮世絵の伝統を生かし新しい風俗画を目指した日本画の研究団体「烏合会」を結成。展覧会は文学的な課題作と研究作の2本立てで、常に注目を集めたそうです。

またこの年の5月、師匠の年英さんの推薦で、東京朝日新聞の誌面に大相撲夏場所の最中、毎日の注目の取組を紹介する取組挿絵を描き始めます。
テレビもラジオもない当時、新聞各社競い合うように行っていた相撲報道では、相撲に詳しい小説家を起用して現地で取材し、その日の注目の取組に解説文と3コママンガのような挿絵をつけて紹介していました。
中でも英朋さんの取組挿絵は写実に徹していて、人気力士の特徴を捉えて描かれており、栗島挟衣(くりしまきごろも)さんの解説文と共に、勝負の決定的瞬間と勝敗を正確に伝えている、と、大人気だったそう。

会場に展示されていた当時のスケッチ帳には、土俵を蹴った時の砂、負けた力士の緩んだ廻しの様子だけでなく、館内の様子や、行司の姿も。いろんな風景をこまめに描いていたことが活きていたのでしょう。個人的にお相撲好きなので、ここのスケッチや作品はもっと見たかったです。

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1902/明治35年、22歳だった英朋さんが、烏合会の展覧会に出品した日本画『梅ごよみ』が、新たなご縁を結びます。
作品を観た尾崎紅葉さんの推薦で、半年後、春陽堂の編集局へ入社し、家庭小説の口絵のお仕事を多数手がけるようになります。ちなみに春陽堂は、現在も銀座に存在するんですよ。

また、1906/明治39年には文科省の嘱託職員となり、なんと30年以上!1940年まで教科書に挿絵を描いていたそう。なんと贅沢なー!!!
教科書の挿絵には署名がつかないため、英朋さんが描いてたことはあまり知られてないそうです。教科書じゃ、きっと現在はなかなか残ってないんでは・・・

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そんな風にお仕事が順調だった英朋さん、プライベートでは4歳下の菊さんという方と結婚され、三男四女のお子さんに恵まれました。
娘さんのコメントが印象的です。
「誰に対してもとにかくとても優しい、必ず約束を守る父だった」
そうでしょうそうでしょう、素敵な方ですね。

お家では、育ててくれた祖父母や、内弟子に通い弟子、女中さん、お針子さんまで暮らしていたそう。大家族!自分の筆一本で家族を養うってカッコいいですよね。きっと忙しくも幸せな日々を過ごしていたのかな。

また、大事な友人・伊藤英泰さんとも出会えました。英朋さんの4歳年上だった英泰さん、同じ師匠の元で学び、東京朝日新聞での挿絵画家を経て、日本画に転向しました。
展覧会では、英泰さんが描いた日本画と並んで、英泰さんのご遺族宅で大切に保管されていた、英朋さん25歳のときの日本画『焼けあと』が初公開されていました。至近距離で鑑賞できましたが、女性のなんとも言えない表情の美しいこと。息するのを忘れてしまうほど、じっと見つめてしまいました。

ただ、残念ながら、英泰さんは55歳の若さで亡くなってしまいます・・・30年以上もの間、友人だった人を亡くすとは、本当につらかったでしょう。
英朋さんの遺品には、20代の頃、お揃いの浴衣を着て一緒に撮った写真が。ずっと大切にお持ちだったんですね。

しかし英朋さんはこの頃から晩年にかけて、友との別れだけでなく、息子全員と娘一人に孫、妻まで立て続けに亡くすことに・・・。ちょっと理不尽すぎて切なくなりました。その後、88歳の天寿を全うされますが、人生、いろいろなことがありますね・・・


◎英朋さんの師匠・右田年英(みぎた としひで)さんもすごかった!

右田年英さんは、1863/文久3年、大分県臼杵市生まれ。
13歳で上京し、21歳の時に師匠である月岡芳年さんに入門します。

1887/明治20年、24歳で、東京朝日新聞の前身のめざまし新聞に入社。退職するまでの36年にわたって新聞小説の挿絵を手掛けました。
日清・日露戦争の報道錦絵では、写真に負けない迫力ある作品を手掛けて人気に。また、9代目市川団十郎の役者絵も多く手掛けていました。
展示されていたその役者絵、素晴らしかったです。特に空摺がすごい!細かい!!!着物の織り柄、特に白の部分の模様、髪の毛・・・彫師さん摺師さん共に、ものすごい技術だったんですね。

晩年は、廃れゆく伝統的な錦絵を残したいという想いから、1921/大正10年「年英随筆刊行会」を立ち上げて、錦絵の出版に取り組みました。
「歴史の部」「漫筆の部」などのテーマ別に2枚1セット、毎月15日に1セット2円で頒布したそうです。今でいう、画集の特装版みたいな感じでしょうか・・・
展示されていたものがまた、びっくりするほど繊細で豪華な出来栄え。もしわたしがこの当時に生きていたら、間違いなく絶対、欠かさずに買ってましたね。明治~昭和の錦絵好きなので、素晴らしさにためいきが止まりませんでした。これはぜひとも多くの方に、会場で実物を鑑賞いただきたいです。

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英朋さんと同様、年英さんもまた、人格者というか、素敵な方だったようです。物欲や名声に無関心で、家族の幸せを第一に考える良き家庭人。温厚な人柄で、お弟子さんも多かったそうですよ。門人みんなで仮装した集合写真とかが展示されていて、とても微笑ましかったです。


◎まとめ

想いがありすぎて、なんと5,000字越えの過去最長の長文(!)になってしまいました・・・。でもそのくらい観に行って良かったです。
鰭崎英朋さんのこと、お師匠さんの右田年英さんのことをしっかりと知ることができましたし、月岡芳年さんや鏑木清方さんなど、歌川派の系譜に連なる方々の作品を非常にコンパクトに楽しめました。

館内があまり広くない施設なので、混雑してしまうと正直ちょっとキツイかも・・・太田記念美術館が再開するとちょっと混むかなぁと思いますので、ぜひその前に、弥生美術館からどうぞ。
そして営業再開した際には太田記念美術館にも足を運ばれることをおすすめします。


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弥生美術館と竹久夢二美術館そのものについても、近々、ご紹介する記事をまとめたいなぁと思っています。

太田記念美術館での展示についても追って記事にします!!!

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