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夢なんて、いくらでも何度でも作り直せばいい


私は祖母のことを親しみをこめて「ばあさん」と呼んでいる。先日ばあさんは98歳になった。

ばあさんは、去年から福島の老人ホームにいる。もう数ヶ月会えていない。

誕生日の午後、電話するか迷っていた。「施設」というところは、だいたいどこも人手が不足している。家族からの電話を本人につなぐ仕事はオプション対応だ。お願いして断られることもある。でも今日はどうしても声を聞きたかった。

「今日は祖母の誕生日なんですが、お祝いを本人に伝えたいので、電話をつないでもらうことはできますか」

たったこれだけのことを伝えるのに気が引ける。ばあさんの生活の場は向こうにあるんだから仕方ないんだ。
でも今日の職員さんは快く引き受け、本人を電話口まで連れて来てくれた。ありがたい。

ばあさんが「はい」と出る。
変わらない声。嬉しくなる。

「私のこと誰だか分かる?」

ニヤニヤしながら試してみる。私のことが分からなくなっていたらどうしようとドキドキする。

「おぉ、直美だべ」

変わらない言い方。また嬉しくなる。

「今日誕生日だよ。おめでとう。何歳になったと思う?」

「何歳だ?88かぁ?」

10年ずれてる…。いや、もうこの域に入ったら10年なんてたいした誤差じゃない。電話の先でばあさんが元気に生きてる。それだけ確認できれば十分だった。でも、ばあさんの方は十分じゃなかった。おきまりの質問を投げてくる。

「おまえ、どこに居んだ?おれはいつまでここに居んだ?」

この質問をされるといまだに上手くこたえられない。胸がぎゅっと苦しくなる。

そうだよね、ばあさん。
うちに帰りたいんだよね。

***

ばあさんは去年まで、自宅から週5日デイサービスに通っていた。去年1月の雪の日、「シヅさんが突然歩けなくなりました」とデイの職員さんから電話が入った。傾いて歩けない、しびれもあるので頭の方からきているかもしれないと言われた。

96歳、何が起きてもおかしくない。急いで駆けつけたいのに、雪のせいで車がなかなか進まなかったのを覚えている。こんなときの時間は、いつもとても長く感じるものだ。

ばあさんは椅子に座っていた。それだけ見たらいつもと変わらない。デイの職員さん二人が、ばあさんの両脇を抱えて歩く様子を見せてくれた。大人二人で支えても、ヨタヨタっと左側に倒れ、ほとんど前に進めなくなってしまっていた。

「朝まで何でもなかったのにどうして?」

本人に聞いても何が起きているのか分かっていない様子。とにかく病院に連れて行くことになった。雪の中、職員さんたちは一生懸命に、歩けないばあさんを車に乗せるのを手伝ってくれた。

心配そうにいつまでも私たちの車を見送ってくれたデイの職員さんたち。これが、何年も通ったデイサービスの最後の日になった。

***

一つ目の病院ではすぐに原因が分からなかった。仕方なく一旦うちに連れて帰るも、全く歩けないし嘔吐もした。今度は救急車を呼んだ。2つ目の病院でも原因が分からず、3つ目の病院で入院しながら全身を調べることになった。

いつ、誰に、何が起こるか分からないことが日常になっていたこの頃。入院ぐらいでは動じない。ささっと入院手続きを済ませ、うちに帰ってばあさんの衣類などをまとめ、また病院に戻る。

3日後、MRI画像から、腰の神経が圧迫され、脳からの指令が足に届かなくなっていることが分かった。

医者は残酷な言葉をサクッと伝えてくる。

「脊柱管狭窄症です。もう歩くことはできませんね」

「は?」

3日前まで何でもなかったのに、そんな急に歩けなくなるわけないでしょ。足腰は弱ってたけど、手すりをつたって自力でトイレや部屋に移動してたんだから。まだ、母親も回復してないのに、ばあさんまで歩けなくなるなんて、困るどころの話じゃないんです。そんな簡単に終わらせないでくださいよ、先生!!

希望の光を少しでも見出したかった私は、その医者にしつこく食い下がった。でも、結果は1ミリも覆らなかった。

医者になんてなれないけど、なりたくもないと思った。

***

介護者だった母が鬱で緊急入院し、1歳にもなっていない息子とともに東京から福島の実家に戻り、母、障がいの兄を抱えながら、ばあさんの介護をしてきた日々。

「ばあちゃんまで見るのは大変なんだから、早く施設に入れたほうがいい」

と周囲からは散々言われた。
自分の生活を犠牲にしてまでやるな、ということだったんだと思う。

私は、
「犠牲もなにも、やれる家族は私しかいないんだからやるしかないでしょ」
と思っていたし、

「手を出さないなら、無責任な口も出してほしくない」
と意固地になり、少しずつ周りと距離をとっていった。

確かにばあさんの介護は楽ではなかった。でもばあさんだって、介護されっぱなしじゃなく、家の中でちゃんと役割があった。

洗濯物をたたんでくれるし、スリッパもピッチリ揃えてくれる。ひ孫もかまってくれるし、母が撒き散らかすネガティブ発言だって見事に聞き流してくれていた。

どんなときもユーモアを忘れず、自分は幸せだと言いきる明るいばあさんが、茶の間にドーンと座ってくれているだけで私は心強かった。

母が元に戻ったら、母とばあさんの希望通り、また自宅で暮らせるよう体制を整えておくことが私のゴールだった。そのときに備え、介護サービスも限界まで使って、やれることはこの一年で全部試してきていた。

それでも、急にやって来たこの残酷な結末に、在宅での介護はもう無理だと判断せざるを得なかった。被介護者が少しでも歩けるか、全く歩けないかで、介護の負担は全然違ってくる。

心身ともにまだまだ不安定だった母が、歩けないばあさんの介護をしたら共倒れが目に見えている。

私は、ばあさんと母、両方を生かす道として、二人の希望とは逆の、二人を離す道を選んだ。

こんな偉そうなことを言っているが、「最良の選択だったのか?」と聞かれれば、未だに「そうです」と言い切る自信はない。

ばあさんは家が大好きだった。実家は少し高台にあって、茶の間からは、じいさんとばあさんが何十年も手入れしてきた田んぼが一面に見渡せる。

今は人に貸してしまった田んぼだけれど、茶の間の窓のところにちょこんと正座して、その景色を毎日毎日飽きずに眺めていたばあさん。

私もその姿を見るのが大好きだった。そんな小さな幸せを、叶え続けてやれなかったことが悔しかった。

***

最終手段としていた老人ホームに、ばあさんを入れると決めた日、
それは、「兄と母と祖母がもう一度一緒に暮らせるようにする」という私の夢を諦めた日でもあった。


自分の無力さを思い知らされた。


だけど、これで終わらない、

終わらせない、

終わるわけがない。

夢なんて、
いくらでも、
何度でも、
つくり直せるものだから。


つづく。

◇◇◇


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