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『一度は消えかけた京都の粟田焼き、たった1人で復活させた方は…』



日本には…
数百年、時には千年を超える歴史を持つ
素晴らしい文化や技術があります。

にもかかわらず
経済的な状況などにより途絶えてしまうものが
少なくありません。

海外では、
ドイツのマイスター制度など
国が支援をして
職人の皆さんの地位を向上させたり
経済的なサポートで
技術を守ったりする仕組みもありますが、
悲しいかな、
日本の現状は厳しいと言っても過言ではないのです。

そんな日本で!
たった一人で
京焼の『粟田焼』の歴史を
守っている方がいらっしゃるんです。

その方の名前は
安田浩人さんです♫

京都は蹴上のあたり、
大きな街道から京の都へ通じる入り口の一つ
『粟田口』。

『粟田焼き』と言うのは、
江戸時代初期の頃から
このあたりで盛んに焼かれた京焼の総称です。

「古清水」と呼ばれる作品群の
大きな位置を占めていたのが『粟田焼』だそうです。

当時、京の上流階級で盛んだった茶ノ湯。
オーダーを受け様々な茶器を作っていたのが
粟田の陶工たち。

京焼で活躍した、あの野々村仁清も
粟田でロクロの修業をし、
その後、御室の仁和寺近くで開窯しました。

青蓮院御門跡の御用窯として栄えた『粟田焼』の
第二の黄金期は江戸時代後期だと言うことで…

この頃、
粟田にゆかりがある陶芸家を揚げてみると、
永楽家のスーパースター、十一代保全!!
その若き日々を粟田で修業していました。

二代目高橋道八の仁阿弥道八も
五条に移る前は粟田に居たそうです。

明治から大正時代にかけて
『粟田焼』は海外へも進出していました。

薩摩焼の金襴手の技法に
京ならではの垢抜けた意匠を織り込んだ
『粟田焼』は「京薩摩」として
欧米で大変もてはやされたそうです。

しかし…
世界恐慌と二度の世界大戦は、
海外に顧客の多くをもつ粟田焼にとって
致命傷となってしまったのです。

陶磁器を売る日本の会社の海外支店は
大戦で没収されるなど、その傷は甚大で
ここで産業としての粟田焼は終わりをつげます。
昭和二十年代末のことです。

その後、
粟田の火を受け継いだ作家も亡くなり、
火は完全に途絶えてしまっていたのです。

そこで!
途絶えてしまった粟田焼の復興を志したのが
安田浩人さんです。

そんな素晴らしい作家の方と
お茶のご縁を頂き交流を持たせて頂き
数年が経ちました。

この度、
京都の高島屋6階で
「茶陶店」を開かれていると言う事で
行って参りました!!

お茶会やお茶事で
たまにしか出逢えない
安田さんの素晴らしい作品を、
展示会では思う存分、堪能出来ます( ^ω^ )

宜しければ、
2023年1月16日(月曜)までですので、
是非是非、足を運ばれてみて下さい♫

※『粟田焼』詳細はHPから抜粋させて頂きました。
 宜しければ、こちらに詳しく書いてあります。 
https://awatayaki.com/

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