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自由とは。

先日、子どものことで、話しになった。

友人がこう言った。
「小学生とかで一人で電車で通学している子を見ると、気の毒に思うんだよねー、勉強させられてかわいそうって。今くらい、遊ばせてやれば良いのにって。」

もう一人はこう言った。

「私にとって、子どもに最適だと思っているのは“褒めて伸ばすこと“、自由にさせてやること」

以前の私は、この二つの意見に賛成で、首をブンブンと縦に振っていた。でも、この半年で考えがガラッと変わった。

果たして、そうだろうかと今は思う。

まず1つに、勉強をする姿を、実際に目にする機会を得られたことが大きく影響している。
息子は勉強を教えられて、嫌々やっているだろうか。驚くことにそんなことは無いのだった!現段階での勉強って、数字遊びだったり、はじめて文字を書いたり、好奇心の延長線。

うまく乗らせさえすれば、とても楽しんでいる。

知らなかった言葉を知ったり、問題の解き方を覚えたりする事に充実している様だ。


第二に、「自由を制限されることで得られる自由がある」事を私自身が知ったから。

その逆で、「自由を与えられることで奪われる自由がある」ということ。

むずかしいかな。

どういうことかと言うと、
例えば、絵画。
学校では、人物の絵を描くときに、顔の大きさは全体に対してこの程度だ、とか、腕は肩の部分から出ていないとおかしい、とか、“常識”を詰め込まれる。

いわゆるバスキアや往年のピカソみたいなものは許されない。(横向きなら目は2つ有ってはいけない!)

最初、私も「一般常識詰め込み系」指導に、とても抵抗があった。

こう思った。
「これじゃぁ、彼の自由な発想や自由な表現を潰してしまうよ。。」  

けれど、学びを数回経た息子は、
「とうちゃんの絵」と、人の絵を自発的に描いてくれる様になった。自分が“表現したいこと”、かつ、〝表現できること”の幅が明らかに広がっている様に感じた。  
(以前は表現したいことはあっても、表現力が伴わずに、描くことができなかった)

私は、褒めて伸ばす、に限界が有ることを、自分自身の人生になぞらえて、感じてる。

褒められるこというのは、出来たことに対してだけだ。つまり過去だ。これからの事に褒めると言う行為は行うことができない。

これからできていく事は、大人が導いてあげなければ、知るよしがない。
褒めて伸ばす、で英語は話せるようにならない。

そしてもう一つ。守破離の様に、

型を覚えてはじめて、崩していけると思う。
書道の楷書と草書のようなものなんじゃないか。

楷書を書けてはじめて、書家となり、草書にスタイルが生まれる。

楷書が出来ていなくて書家になれるのか。
その段階で、苦労があるのは当たり前なのではないか。


小さな年齢で、ある一定の学びを受け取れることは、贅沢なことであり、大人による意識的行動が必要なことだから、私自身がそれを初めて経験しながら、私自身があたらしい学びを受け取っている。

スポンジのように、毎日どんどん吸収している息子の姿を見て、この素材をどんどん伸ばしてあげたいなと思う。

私自身は家庭において、自由放任主義の父と母に育てられた。
それは悪いことではないけれど、それによって、私は、年齢を重ねたあとに、とても苦労したと思う。


社会に出て活動していくに当たって、

1:自分の好きなことを知る
2:知った好きなことで勝負していく、と2段階あると思うけれど、

まず好きなことを知るのに苦労があり、そして見つかって勝負をしていくのには学びが必要になる。

「好きなことを知る」「自分の得意に気づく」ことは、自分自身の観察もそうだけれど、周りからの影響がとても大きい。

私は人生はじめての育児を通して、
保育と教育の違いを知り、
あぁ、私も小さな頃にこうして、勉強の楽しさを伝えてくれる存在が有ったなら、と、羨ましい気持ちになったりするのだった。(誤解を恐れずに言えば…!)






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