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自分が信じられないのは何故か

こんにちは。今日も元気でお過ごしでしょうか。

私はアメリカの大学や大学院の演劇舞踊科で20年ほど教えていましたが、その間生徒から様々なフィードバックやコメントを受けました。その中でも一番心に残ったのは、『自分を信じることを学びました。』というものでした。この生徒が受けていたクラスは身体の動きが中心になっていましたが、私のアプローチが従来のものと違っていたためか、生徒は少し戸惑っていました。正しい答えはないのに、考えすぎて、なかなか自分を解き放つことができずにいるのです。

自由に青春を謳歌しているように見える彼らは、自己イメージについて悩んでいることが多く、他の生徒からの心理的プレッシャーや、メディアに見られる「理想的な」体型に沿わないことの劣等感を抱き、「個性的なイメージ」を外に押し出していなければ自分が存在しなくなる恐れを内に隠し持って行動しているため、なかなか本来持っている能力が発揮できません。私の仕事は、身体と心の関係を通して、その埋もれてしまっている能力を開花させることなのですが、なかなか一筋縄ではいきません。

同じクラスである時、一人一人がソロでパフォーマンスをする宿題をあげたことがあります。それは、「日常での何気ない瞬間を選び、感覚から自分の仕草や動きを紐解いてみる」というものでした。この課題は大変シンプルに思えるのですが、生徒は困っている様子です。その理由はどうやら、彼らが慣れている「ドラマ」のキャラクターなどに取り組むのではなく、このシナリオでは、「自分」が材料だと言うことらしい。

「自分」が材料なので、外に答えはなく、自分の中に深く深く向かうしかありません。その中で生まれてくるのは、懐疑心です。

「なんのためにやっているのか」と疑い、そこをクリアしてとりあえずは作ってみるが、「こんなの面白い?」とジャッジする、そこから、「自分という人間は、一体全体面白いのだろうか?」という疑問が起こってきて。さらに、「自分には、何か言いたいことがあるのだろうか?」、「生きている意味はあるのだろうか?」などと深い問いかけへとつながっていく。そうした気持ちに対峙しながら課題に取り組む中で、ある時ハッと、「表現していなくても、表現になっている」ことに気づきます。躍起になって、人に自分のパフォーマンスを印象づけようとしなくても、自分自身が、十分な表現であることがわかってくるんですね。そこで初めて、単純に見える一つ一つの行為が、素晴らしい芸術に生まれ変わってくる。自分自身が十分であることがわかると、自分が信じられるようになってくる。自信がついてくる。自分でいいんだ、他人のようにならなくても良いんだと。そうなんです、自分の中に全てはあるんです。

この生徒たちのように、わたしたちの多くは、自分が信じられず、答えを自分の中ではなく、外に求めているのではないでしょうか?

自分の中に答えがないと感じる時、自分が十分でないと感じる時、私たちは、この危機的状況(自分がない)をどうにかしようとします。逃避し、戦い、隠れる外に楽しいこと、エキサイティングなことを求めて、自分を忙しくする。とにかく自分の中を見なくても良いように、仕事に没頭したり、次から次へと予定を入れる。「こうなりますよ。」「こうしなさい。」「あなたはこういう人です。」「将来はこうなるでしょう。」といった「自分を解き明かしてくれてどうすれば良いか導いてくれる」ものを探し求める。目立たないように、気づかれないように、声をひそめて生きる。

そうやって日々を過ごしているうちに、自分の思考も、感覚も、感情もどんどん磨耗していきます。自分が誰なのか、何が自分の中にあるのか、わからないから信じられない。わからない中にじっといられない。

仕事が嫌なのも、人間関係がスムーズに運ばないのも、自分の能力が発揮できないのも、人生が開いて行かないのも、その根源は全て、自分の中にあります。

あなたは自分に興味がありますか? それともあなたの興味は外に向いているでしょうか?

「もっと自分を信じたい」と思っている人、まずは、 自分に興味を持つことです。ジャッジなしで自分を一人の人間として観察し、「自分は何をしているのか、何をどう感じて、どう考えているのか?」に深く興味を持つ。そして、自分と一緒にいることです。どんな時もどんな状況でも、離れず放り出さず、「自分」と一緒にいること。

 「自分」が始まりであり、終わりであり、全ての根源です。「自分勝手」や「自己中心」や「自己主張」ではなく、「自分が主体」となり、自分を通して世界を見る、自立する、そして自分に責任を持つと、全く違う現実が見えてくるのではないでしょうか。


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