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バイナリー(二元論)思考

私たちは日常、様々なことに対して何かを思い、考え、判断し、行動していますが、その際、知らずのうちに黒か白か、良いか悪いか、こちらかあちらかという二択で選択していることがあるのではないでしょうか。

もちろん物品の品質などを選ぶ時には、良し悪しの判断も必要となってくるのですが、こうしたバイナリー思考に基づく判断が、人生で起こってくる物事や人に至る時、その本質を見逃してしまうことになりかねません。例えば、恋愛や結婚の対象となるパートナーを選ぶ時、背が高いのは良くて、低いのはダメ、痩せているのは良くて、太っているのは良くない、教育がない人は信用できず、学歴がある人は信用できる、貧乏人はダメで、お金持ちは良い、などなど。行動や選択のパターンになると、物事を最後までやり遂げない人はダメで、やり遂げる人は良い。人に褒められたから良くて、けなされると悪い。早い人はよくて、遅い人はダメ、成功は良くて失敗は悪いということになります。今はネットで出会ったり、結婚相談所でお見合いするのが普通になっていますが、収入や容姿の良し悪しといった表面的な条件で一生を共にするパートナーを決めてしまうと、その後の二人の人生はどうなるのでしょう?そして、選んだ条件が年月を重ねていって変わっていった時には、再びその条件を満たす人を求めて彷徨い続けるのでしょうか?

二択で人生を考えると、「良い」のが良いのだから、「悪いところは直せばいい」という思考になります。それは一見、建設的に思えますが、自分というものを「破損している」存在とみて、壊れている部分を「直す」のだと、根本的な解決にはならず、自分が嫌だと思うことにバンドエイドを張って応急処置をしているにすぎません。しかも、ここでもっと深刻な問題は、どこに向かって自分を直しているのかということです。何かの「理想的な」モデルが外側にあり、それに合わせて、良い悪いを決める、それに向かって自分を正していく。 前出の例だと、パートナーに好かれるように自分を改善していく。そうこうするうちに、自分軸を失い、自分が一体誰だったかわからなくなってくる。よくあることです。 

二択には、魅力がありますし、大変便利です。全てを二つの箱の中に仕分けて入れ、ラベルをつければ良いのですから。「良い」箱に入っているものだけを自分の人生に入れて、「悪い」箱に入っているものは捨ててしまえば良いんです。安心ですね。しかし、その二択の基準を決める物差しは、往々にして、自分の物差しではなく、 過去に親から与えられたもの、学校で教育を受けたものに基づいており、人生を渡っていく上で不可欠なサバイバルの道具でしかありません。二択のレンズで人生をみていると、常時「良い悪い」で物事や人を判断し、自分や人を裁き、その状況を引きずって毎日を生きてしまいます  

二択の人生は、自分にとって良いか悪いか、利益があるかないかで全てを選ぶ「ムダ」と思われるものを一切排除する人生です。一見、素晴らしいように思えますが、人間も人生も、そんなフラットで二面的なものではないので、どこかで、ハレーションが起きてしまいます。演劇のキャラクター作りでも、バイナリー思考は致命的です。中身も深みも葛藤もない、マンガのような2Dのキャラクターを作り出してしまうからです。かくいう私も、ある時期「食事を自分で作るなんて、なんて無駄な時間と労力なんだろう。ピルでもあればよいのに」と思っていました。仕事の時間を増やして、そういう「合理的」と思われる生き方をしていたら、いつの間にか、自分の体は吹けば飛ぶようなペッチャンコな2Dの体になってしまいました。 

二択人生では、「良い」と「悪い」の間にある数多くのオプションが見えません。身体機能をにも影響を与えますし、白でなければ黒というスタンスは、人間を「逃避か闘争か」のメン タリティに追い込み、逼迫感で筋肉神経系の機能を損なわせ、脳をフルに働かなくするため、そこにあるものが見えない状態を作り出してしまうのです。人間の魅力、人生の醍醐味は、白と黒の間にあるグレーゾーンにあります。結果的には定義できる形で現れているように見えても、その奥深くにあるのは、グレーゾーンを通って来た軌跡なのです。




その中でいつも思うのは、バイナリー思考、二元論で人生を生きてしまう人が多いということです。 

バイナリー思考には、黒か白か、良いか悪いか、こちらかあちらかという二択しかありません。 

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