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習慣は自分軸のバロメーター

世の中には様々な習慣を実行していらっしゃる方がいらっしゃいます。
 
朝は8時に起きて、必ず散歩に行き、その後コーヒーを飲みながら新聞を読む。その新聞は、必ず経済面から始めて、社説で終わる。夜寝る前は、アロマをたいて十分間、瞑想をする。一日に一粒、お酢につけたピーナツを食べる。日曜日は読書を一時間する。起きたら寝巻きをきちんとたたむ。出したら片付ける。何かを習ったら必ず復習する。 

私が育って来た環境では、「習慣」とは、「自分のためになることを、きっちり確実に定期的にこなす」ことだと教えられてきました。「習慣をつけなさい」「。。。する癖をつけなさい」としょっちゅう言われて来たせいか、私はどうしても習慣というものに馴染めませんでした。自分でこれを習慣としてやると決めた瞬間から、憂鬱にさえなって来ます。そして、やり始めても「三日坊主」になってしまう私は、なんて自分はダメな人間なのだろうと、がっかりしてしまうのです。

「(決まった時に)決まったことをする」、それを続けることで、自分に癖や習慣が「ついて」くる。。。なんかやっぱり変です。私にくっついた習慣や癖は、外したい時は外せるのでしょうか?

確かに、習慣をつけて積み重ねることが、成長に繋がることもあります。しかし、「確実に繰り返してやらなければならない」と、自分にプレッシャーをかけてしまうと、苦しい。そして、実行せんとするがために、その日のその時に起こるかもしれない他の可能性を、排除してしまうこともあるでしょう。朝のこの時間は邪魔されたくない。この時間は瞑想をすることにしているから会えない。新聞を毎日読む習慣が身についている人は、新聞が届かなかったら、不安で怒り狂うかもしれませんし、コーヒーが切れてしまったらどうでしょう?何かを習って、完璧に復習しないとだめだと思っている人は、時間をとりすぎて、新しい情報をとり入れる機会を逃しているかもしれません。

「定期的に繰り返すなにかの決まり事」には、毎日個人が行う習慣だけでなく、社会の慣習や習わしもあります。日本でしたら、季節に合わせて、お歳暮とかお中元を送ったり、お葬式の満中陰志や、結婚式のご祝儀などもその中に入ります。長年外国に住んでいた私は、日本の「お返し」のタイミングを逃してしまい、「常識がない」などと言われたことが何度もありますが、何故そんなに細かいルールに従って、気持ちや心の動きを形式に従わせないといけないのか、どうしてもわかりませんでした。こうした社会の慣習も、元々の意図には意味があったのかもしれませんが、いつしか「社会からのプレッシャーのために行わねばならないしきたり」になってしまっているようです。

習慣にこだわりすぎると、直感を押さえ込み、自分を動けなくしてしまうこともあります。そこで私は、「習慣」を「私が必ず実行したいこと」と解釈し直してみました。すると、色々出て来ます。例えば、興味を持ったらどこまでも追求する・自分のためになると思ったことは、どんなにお金、時間、労力をかけてもやる・食べる時は、食べたいものから食べる・笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣く・感じたら、考える前に動く。シンプルなんですけど、私が私である上で、これらは全てすごく大事なことなんです。できなくなって来たら、自分を見直します。何だろう、何か課題があるな、どこだろう、今自分は何をしなければならないんだろうと振り返ります。

習慣を、縛りではなく、自分軸をチェックするバロメーターとして使ってみましょう。いつでも方向転換が可能にしておきましょう。大きなスパンで、自分に必要な物や事を見極めると、「習慣」は、形式に囚(とら)われないダイナミックな決まりごととして、私達の成長を促してくれることでしょう。


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