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言葉の壁は心の壁(3)

言葉の壁は心の壁(3)

こんにちは。今日もお元気でお過ごしでしょうか?

今日はちょっとオタクな話です。

日本の伝統芸能の一つにに能楽があります。700年近くの歴史があるこの芸能では、洗練された舞台で厳しい舞や囃子、演技のトレーニングを幼い頃から積んで、磨き抜かれた技術を持つ能楽師によってパフォーマンスが行われます。

私は2001年から2016年ごろまで、日本の能楽を日本語で行う劇団、シアター能楽に所属していました。シアター能楽では、日本の古い芸能である能楽のトレーニングを積んだパフォーマーが、能楽の形式に沿って書かれた戯曲を英語で演じます。私がシアター能楽に所属していた頃は、メンバーはほぼアメリカ人で、日本人は一人か二人でした。

日本の伝統芸能をアメリカで学び、英語で演じる。体、言葉、心理の関係、私の中の日本語と英語、形式と自由など、私の中で様々な要素がぶつかり合い、せめぎ合う日々でした。シアター能楽の舞台では、英語で書かれた能楽の戯曲を、能楽の演技の形式に沿って、英語で演じます。日本語を喋る日本人の私が、体は日本の伝統芸能の所作や、形式化された日常の動作も入ったお能の動きをしている、喋る言葉は日本語の古語ではなく、現代英語、つまり外国語ですから、中で起こってくる葛藤は半端なものではありません。

アメリカ人で、英語で育った人であれば、自分の言語を、能楽のスタイルで話し、能楽を演じることにそこまで葛藤を感じないかもしれませんが、日本語が母国語の日本人である私は、そこにもう1枚も2枚もフィルターをかけてしまうのかもしれませんね。

ある時、『Blue Moon Over Menphis』という、エルビスの人生に基づく戯曲のシテ役を務めさせていただいたことがあります。この役はエルビスの恋人の役で、エルビスの亡霊との情感こもったやり取りもあり、感極まる場面もいくつかありました。能楽では、西洋の劇で起こるような「感情移入」が起こることはなく、気持ちの流れはすべて、「型」を正確に行うことによって観客に伝えられます。古語で話しているので、言葉も現代のように惚れた腫れたではなく、面(おもて)を少し傾けてることで悲しさを表したり、鬼の面のように、もうすでに怒りたけっている顔のキャラクターもいますから、「あなたをとっても愛しています!」と叫ぶこともなければ、「馬鹿野郎!」などと言葉で感情を明確に表すことはないわけです。

能楽では、自分の持っている感情と、言葉の表現との距離が常に保たれていて、歩行の一歩や片手をある角度に上げて下すという所作や囃子で、感情の動きやお話の筋を表します。古語を発語する時のリズムは決まっていて、ある抑揚で音楽のように言葉が流れるので、中の感情の動きで言葉の表し方が変わってくることはありません。能楽では世阿弥が10感じて8表すと言うように、最小限の動きや言葉の中に秘められた感情の動きを観客は感じとります。

しかし、それはあくまでも、日本人が日本語の古語で能楽を演じる時の話です。

この『Blue Moon Over Menphis』という戯曲、現代英語で書かれていますから、通常であれば中の感情の動きに伴って、喋り方が変わってくるわけですよね。対話しているうちに、感情が湧き起こってくる、それは言葉のトーンやスピード、体の動きに現れてくる。それを能楽の形式の中でやろうとするのですから、当然ハレーションが起こってきます。「あなたをお慕い申しております。」と現代英語で言いながら、悲しさで胸がいっぱいになって、感極まっているのに、それを表したくても表せないのです。

私は、通常英語を喋っています。30年近くアメリカに住んできて、英語ってアイデアを重視する言語だなあと思います。日本語はどちらかといえば雰囲気や空気感を大事にしますね。そして英語は正確で緻密です。とにかく説明しないといけない。感極まる時の言葉もそうなんです。クリアで鮮明です。時には、もういい加減に察してくださいと言いたくなる。そういう言語を使って心の底から現代英語を搾り出しながら、体はお能の立ち方で立っているんです。そして正確に決められた日本的な動きをゆっくり行なっている。そこに閉じ込められた私の肉体は、爆発したい、でもできない。とても不思議な感覚です。

言葉、心、体。どこまでが日本でどこからがアメリカなのでしょう?私の中の情緒的な部分は、日本語の古語を喋る時、英語を喋る時に、何か全く別のものにすり替わってしまうのでしょうか?感情を表す時、日本語だとなんだかチグハグになってしまうと感じるのは、なぜでしょう?日本語と英語の間で揺れ続ける体と心を眺めながら過ごす日々、こうした疑問は尽きません。

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