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「本当に」の虚偽性

みなさま、こんにちは。お元気ですか?

日本語には、とても便利な「本当に」という言葉があります。
本当に尊敬しています。本当に辛い。本当に美味しい。本当にダメなやつだ。本当に愛してます。

 この言葉、何だかクセものだ。何でも、「本当に」とつけた途端に、それが強調されるどころか、意味がなくなるような後ろめたささえ感じる。いやーそんなことはないだろうと言う自分がどこかにいる。「ホントウに」と言った途端に、「ホントウ」のものは存在しないのを認めていることになる。 

日本のドストエフスキーとも言われる椎名麟三*は、「人間はホントウにだれかを愛することができるか」というエッセイの中で、自分がその人の為に命を投げ出せないと気づいたとき、「ホントウに愛すること」の虚偽性に気づいたと語る。

 「ホントウ」が存在しないのであれば、私達は「ホントウ」には生きていないのかもしれないし、死なないのかもしれない。「ホントウ」がないということに一抹の悲しさを感じるが、裏返せば、これは「絶対性」の否定である。自由である。 そして私たちは、「ホントウ」のものがない故に、それを求めて止まない。「自分は生きている。それが一切なのだ」~ *椎名麟三『永遠なる序章』より

この言葉、今本当に、胸に響きます。

*兵庫県生まれ。中学を中退し、果物屋での20時間労働、飲食店の出前持ち、燐寸工場の鉄具ひろい、コック見習いなどの職を転々とする。1931年特高に謙虚され、獄中で読んだニーチェをきっかけに哲学にのめり込む。ドストエフスキーとの出会いを通して、文学の世界に入る。

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