コーヒーと喫茶店と、小泉今日子

サヨナラさえ、上手に言えなかった
Ah あなたの愛を信じられず、おびえていたの
時がすぎて、今心から言える
あなたに会えてよかったね、きっと私

 NHK BSで、小泉今日子40周年スペシャルが流れている。最初の曲は《あなたに会えてよかった》。デビューの頃10代だった私は、ほとんどの歌を感覚で覚えていた。夜勤明けの今日(夜明けのMEWではない)、キョンキョンの歌声は私の疲れた心身を、優しく癒やしてくれた。



 昼食にサンドイッチを作った。いつものように卵を茹でる間、きゅうりを薄く切り塩もみする。茹でたまごを潰して、ぎゅっと絞ったきゅうりとマヨネーズと少量のマスタードを入れ混ぜ合わせる。10枚切りの食パンに薄くマーガリンを塗り、具材を乗せ、また食パンを重ねる。

 そして飲み物。手挽きしたコーヒー豆に、10円玉程の円を描くようにゆっくりお湯を回し入れる。最初のお湯が無くなってぷつぷつと泡が出てきたら、コーヒーの土手を壊さないように、また少しずつお湯を注ぐ。ゆっくりとした時間を含んだ琥珀色のコーヒーは、心なしか口当たりが柔らかい。


 ▽


 ふいに、20歳の頃付き合っていた彼と、喫茶店で過ごした時間を思い出した。コーヒーの入れ方を熱心に語る横顔。革ジャンからほのかに香る、ラークマイルドの匂い。そこには、小泉今日子の曲が流れていた。喫茶店のマスターになりたかったと言う、こだわりが強い彼とは1年足らずの付き合いだったけど、いくつかのプレゼントを貰った。

 《存在の耐えられない軽さ》という、あの頃は分からなかった映画、その世界に誘ってくれたのも彼だった。《時計仕掛けのオレンジ》という、小説も彼が教えてくれた。それも、あの頃はわからなかったけど。ぽつりぽつりと定点のように存在する記憶は種となって、時間をかけて育っている。



出逢いは風の中
恋に落ちたあの日から
気づかぬうちに心は
あなたを求めてた


泣かないで恋心よ
願いが叶うなら
涙の河を越えて
すべてを忘れたい


せつない片想い あなたは気づかない


 NHK BS小泉今日子40周年スペシャル最後の曲は《木枯らしに抱かれて》。アルフィーの高見沢俊彦さんの作詞作曲。今も昔も片想いのせつなさを、手触りで感じさせてくれる素敵な歌。結婚した大人の恋は、片思いこそが究極の果実だと思うから、気づいてくれなくてもいいのだ。時折思い出してくれるだけで、幸せな気分になれる。



 前にいた病棟の、ある男性スタッフは同い年で少し先輩だった。曖昧で人との距離をとる私とは真逆で、彼は思ったことをずばり言う、スタッフや患者さんとの距離が近い苦手なタイプだった。でも前進あるのみの、まるで豪快な戦国武将みたいな仕事のやり方に、いつしか目が離せ無くなっていった。尊敬から憧れ、そして恋心に変わるのは容易いこと。

 一緒に働くだけで心は満ち足りていたのに、2年後にあえなく移動、せつない片想い、強制終了。そんな彼のいる病棟へ移動になったスタッフとばったり会った。ひとしきり近況を喋りあって、彼女の口から彼の話が出た。『一緒に働いていたんだってね。〇〇さんから聞いてるよ』と、ただそれだけ。ただそれだけで、真夏に涼しい風が駆け抜けてきた様な歓びを感じた。

 

あなたの背中見つめ
愛の言葉ささやけば
届かぬ想いが胸を
駆け抜けていくだけ


 想いはあっても、愛の言葉なんてささやいたりしない。ただ今でも覚えていてくれて、名前を呼んでくれたことが嬉しい。まるで思春期に舞い戻ったみたいな思秋期、それもまた楽しい。キョンキョンの歌はいつだって、その時々の恋の物語を映してくれる。過去から現在、もしかすると未來になっても切なさを感じさせてくれる、そんな気がする。



 …余談。ドラマ《マンハッタンラブストーリー》(宮藤官九郎脚本、松岡昌宏主演 2003年)に出ているキョンキョンも素敵だった。喫茶店のマスターの松岡さんが想いを寄せる、店の常連客のタクシー運転手がキョンキョン。とても好きなドラマだけれど、視聴率が悪かった為配信がないのがつくづく残念。(裏番組は《白い巨塔》だった)

 



 


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