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【Opera】新国立劇場『魔笛』

 ウィリアム・ケントリッジ演出の『魔笛』は2005年にベルギー王立歌劇場(モネ劇場)で初演されたプロダクションで、大野和士新芸術監督が自らの就任後初のシーズンのオープニングに選んだものだ。大野新体制を象徴する一作といえるし、新国立劇場としても新しいレパートリーの中心に据えるプロダクションとして大きな意気込みを持って上演されたことは想像に難くない。美術家でもあるケントリッジ自身の手によるドローイングとプロジェクション・マッピングを駆使した大がかりで視覚的に美しい舞台は、なるほど「新体制」「オープニング」にふさわしい。このプロダクションを買い取った新国立劇場にとっても、今後の大きな財産になるだろう良質の作品であることに異論はない。

 だが、個人的にはこの『魔笛』、隔靴掻痒というか、今ひとつ演出家の主張がしっくりこないプロダクションだった。『魔笛』の物語には様々な矛盾や謎があってそれだけに解釈の余白が大きく、演出家次第でいく通りもの意味を見いだすことが可能だ。その中で私がいつも注目しているのは、この物語における「男性」と「女性」の扱いである。夜の女王たち女性陣が象徴する「闇」の世界に対するザラストロたち男性陣が象徴する「光」の世界。「光」はやがて「闇」を駆逐して大団円となる。『魔笛』は表面上は確かに、愚かで欺瞞に満ちた「女」を正しく聡明な「男」が退治するという物語であり、また同時に、「女」によって騙された「若者」が「男」の導きによって試練をくぐり抜けて正しい道を歩き始める、という通過儀礼の物語でもある。この、現代の感覚でいえば「ポリティカリー・コレクトではない」ストーリーをどう解釈するのか。この「女」と「男」の対立、というかはっきりいえば「ミソジニー」の構造をそのままにしておくのか、何らかの別の構造を見いだすのか、見いだすのだとすればそれはどういったものなのか、というのが、21世紀に『魔笛』を上演する際のひとつの大きなテーマであるというのは、あながち荒唐無稽な主張でもないだろう。

 ケントリッジは舞台を19世紀に移し、ザラストロたち「男」の集団を、19世紀イギリスの会員制紳士クラブに見立てたという。彼らは黒板に向かって天体の模型図を描いたり、その前で活発に議論をしたりしている。映像には度々三角形や三角錐など「3」にこだわった図形が登場したり、またスクリーンに「プロビデンスの目」が大きく映し出されるなど、この「男」たちの集団は従来通りフリーメイソンを表しているとも思われる。一方、夜の女王を筆頭にした「女」たちは、19世紀から20世紀にかけて女性参政権運動を展開した「サフラジェット」を意識しているとケントリッジ自身がプログラム・ノートで述べているが、私の見たところ、「サフラジェット」を思わせる要素はほとんど感じられなかった(そのような演技もなかった)。むしろ、夜の女王たちの描かれ方はほとんど従来と変わらず、そのために「真理の追求をする男たち」に対して「感情的に反抗するだけの女たち」というふうに見えてしまい、ミソジニーの構造はむしろ従来の解釈より強調されているとすら感じられてしまう。ケントリッジがいうように「紳士クラブ」対「サフラジェット」という構図を描くのであれば、少なくとも夜の女王たちの演技や表現にもう少し工夫が必要ではなかったか。

 登場時には「男」と「女」どちらの集団にも属していない「若者」であるタミーノだが、彼はサファリ・ツアーに出かける探検家のような衣裳を身につけている。彼が魔法の笛を吹くシーンでは一頭のサイが踊る映像が出てくるが、サイはもう一度登場する場面がある。それが、第2幕でザラストロが歌う「この聖なる神殿では」で、「この聖なる神殿には復讐はない。あるのは愛だけだ」という内容を持つこのアリアのバックで、事もあろうに実際にサイを猟銃で撃ち殺す実写映像が流れるのである。この場面について演出家は、「言葉の優しさ、声の柔らかさ、そういうものに騙されてはいけないということ」と語っているが、果たしてそのようなメッセージを読み取ることは可能だっただろうか。プログラムに掲載された演出ノートや新国立劇場のサイトにアップされているインタビューなどを読むと、一見ザラストロがいつも正義の側にあるように描かれているものの、その内情は自分たちの主義に反するものを排除し、弱いものを殺戮し、自分たちが考える正しい世界を作ろうという暴力に溢れているのだ、という「矛盾」を描こうというのがケントリッジの意図のようだ。だが、件のシーンを含めた全体を観た率直な感想は、「おそらくそのようなことを言いたいのかもしれないが、そうはっきりとは伝わってこない」である。「矛盾」を描くのであれば、それが「矛盾」であるとわかるような仕掛けが必要だろう。オペラが時間芸術である以上、そこには作品に流れる時間があり、その時間の経過と共に「矛盾」があらわになっていき、最後にその意図に大きく納得する、という演出が施されなければならない。残念ながらこの舞台はそのように統一されてつくられているようにはみえなかった(例えば、先に述べた夜の女王たちの扱い方などもその一例である)。

 もちろん、バロック劇場を思わせる奥行きのあるセットの中で、紗幕やスクリーンを使い二重にも三重にも重なって展開する映像美には目を見張るものがある。それだけでこの『魔笛』を観る価値はあるかもしれない。しかし、今やプロジェクション・マッピングを使った舞台は山のようにあるし、ケントリッジが採用している「カメラ」というモティーフも特に目新しいものではない。映像の使い方だけについていえば、3月に来日したベルリン・コーミッシェ・オーパーのバリー・コスキー演出の方がよほど斬新で独創的だった(余談だがコスキーがモティーフにしていたのも「無声映画」であり、ケントリッジの「カメラによる白黒映像」という要素からコスキーのプロダクションを思い出した人は少なくないのではないか)。

 ちなみに歌手陣は海外のキャスト、日本人キャストを含め「手堅い演奏」だったと思うが、特に第1幕でアンサンブルが揃わなかったのはどうしてなのだろう(この日だけの不調ならばいいのだが)。モーツァルト・オペラはアンサンブルが命だ。それだけで音楽への集中度は大きく削がれてしまう。私は第1幕の侍女たちとタミーノ、パパゲーノの五重唱が大好きなのだが、この日のこの曲には不満が残った。指揮の問題なのかとも思うがどうだろうか(実際、テンポの伸び縮みが激しく、歌手と合っていない箇所も散見された)。

2018年10月13日、新国立劇場。

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