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古典徒然#01 水辺に見た夢


はじめに。鬼になろうとした男の悲喜劇。

「清水」という狂言がある。主人公の使用人・太郎冠者(たろうかじゃ)は、厄介な水汲みから免れようと、清水のほとりに鬼が出たとウソをつく。ところが真相を確かめようと主人が清水に向かってしまい――。

わが身を映して、少しだけ「変わりたい」と思う。人はいったい何年もの間、この営みを続けてきたのだろう。狂言「清水」は、可笑しいのに、ちょっとほろ苦い、大人の変身の物語。

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いつもお読みいただきありがとうございます。なんとか最初の一ヶ月、月木定期更新を続けることができてホッとしています。5月最初の投稿は、古典を題材にしたエッセイをあげてみました。

さて、今日は連休の中日。楽しくお仕事された方も、終業時間を心待ちに時計を何度も眺めた方も、あるいは、今日もお休みだったという方も、一日、お疲れ様でした。息抜きにお読みいただけると、あるいはお聞きいただけると嬉しいです(YouTube、よく眠れると好評(?)です)

水たまりの像に願いをかけて。

音声でお楽しみになりたい方はこちらからどうぞ。

水たまりの上に結ばれる像は、灰色や黄土色の顔をしている。線が細くて、たよりなくて、そよ風でも吹けばゆがんで消える。すぐにでもくつがえせそうな、うすっぺらな自分だ。

今年の梅雨は長かった。明けてからも、湿っぽい空気がまとわりついて離れない。窓から外を眺めたときは雨など降っていなかったのに、駐車場に踏み出すと水たまりの置きみやげ。そういえば、まどろみの中で雨音を聞いたような気もする。のぞき込めばぼんやりと、自分に似た人が映った。

ふと、朝一番に見た自分の姿を思い出す。毎朝恒例のけだるいツアー。ベッドから抜け出してコンタクトレンズを入れ、顔を洗ったら次に向かうのは部屋のすみにある姿見だ。そこに映る自分はいつも真剣な眼差し。強い視線を向けて化粧をしているのはこちら側の私自身なのに、気を抜くと「これがまぎれもないあなたなのです」向こう側の像がきっぱりと宣告してきそうで身構える。そんなこと鏡像に言われるまでもない。自分のことは自分が一番よく分かっている。それでも、どうしたら見てくれ良く変わるだろうかと頭を悩ませながらのぞき込んでいるのだから、口出しなんて大きなお世話。願わくはその視線も外してくれないか。それでも鏡像は睨め付けるように、しつこくこちらと目を合わす。

水たまりの中の自分はそれに比べてなんとはかないことか。「こんなところにいたの」驚いたような視線を向けたかと思えば、次の瞬間にはいなくなってしまう。彼女は主張することなく勝手に私を定義することもない。ただそこにいて、ひっそり消える。
「あなたはこんな感じかもしれないし、そうではないのかもしれないの」
と、私に似た像。
「そう。私はこうなのかもしれないけど、違うのかもしれないのね」
と、乗せられる私。
このおぼろげな自分なら、変わってくれるのではないか。その細い輪郭がゆらぎ、私の求める私を形成してくれるのではないか。私は足下に願いをかける。

ウソから出たマコトー鬼になった使用人―

違う自分になりたい。たとえ自身に決定的な不満がないとしても、ちょっと今の自分に足りないものに惹かれることは誰にでもあるだろう。たとえば、「強くなりたい」とか、「頭が良くなりたい」とか、「きれいになりたい」とか……変身願望は多くの人が心の奥底にもっている夢なのではないだろうか。

「清水」という狂言がある。主人公は太郎冠者という愛すべき使用人だ。身分が低くて雑用に追われる毎日。そのうえ主人には叱られてばかり。そんな彼が鬼に扮装して主人を驚かす場面がこの作品の見せ場である。主従の逆転。目の前で震え上がりひれ伏している自分の主。こき使われて怒鳴り散らされるばかりの日常からは考えられない、願望の世界が清水のほとりに湧き上がった。

主人から茶を入れるための水を汲んでこいと言われたものの、いつも使いにやられることに不満を感じている太郎冠者。何とかして行かずに済む方法はないかあれこれ考える。思いついたのは、鬼が出たために清水へは行けなかったという言い訳だった。

「突然地鳴りがしたかと思いましたら大きく厳つい鬼が出まして、取って噛もう、取って噛もうと襲いかかってまいりました。そこで水汲み桶をも投げ出して、命からがら逃げたわけでございます」
身振り手振りを交えつつ懸命に話す太郎冠者。しかし主人はそう簡単には信じてくれない。
「女子供を遣わせてもそんなことを言ったためしは無かったが……」
その上太郎冠者に持たせた桶は秘蔵の物である。
「なんと、桶を置いて帰るとは。どれ、自分が大切な桶を探しに行って、鬼の真相をも確かめよう」

焦ったのは太郎冠者だ。このままでは怠けるために嘘をついたことが露見してしまう。露見してしまったらどんなお咎めを受けるかわからない。慌てて止めるもかまわずに行ってしまう主人。再びあれこれと考える太郎冠者。今回は怠けるためにぼんやりと考えたときとはわけが違う。主人はすぐに清水へたどり着いてしまうであろう。そのときは刻一刻と迫ってきており、もはやなりふりにかまっている場合ではない。そこで目に入ったのは鬼の面。太郎冠者は自ら異形のものに化けることでウソをマコトに変えようとするのだ。

 鬼の面をかけて、杖をつき、腿を高く上げた不思議な歩き方をする。そこにいたのは“鬼”。惨めな使用人を脱却した、太郎冠者の変身である。

 「使い一つもできない上に桶を無くすとはまことけしからんやつよ」
鼻息も荒く桶を探しに来た主人。そこに鬼は猛進してくる。
「取って噛もう。取って噛もう」
大音声を張り上げる鬼相手では人間などなすすべもない。小さくうずくまるようにして命乞いをする主人を前に、使用人の短い夢が始まる。

ほんのひととき、違う自分に。

「清水」を実際に見たとき、疑問に感じた事があった。「これのどこが鬼なの?」赤・青・黄と明らかに人間離れした色のむき出しの肌、ほとんど半裸で筋骨隆々の肉体をさらし、虎皮の褌を締め、金棒を振りかざして頭には角。学生だった当時、私が抱いていた鬼のイメージはこんなところだ。昔話によく出てくるような、桃太郎や一寸法師に退治される鬼である。それに比べて、太郎冠者の化けた鬼。顔こそ恐ろしい面をかけているが、服は明らかに使用人のもの、金棒も持ってはいないし、角だってない。どうやら私の考えていた鬼のイメージは江戸時代以降確立されたものらしいのだが、それにしたって、もう少し強そうにしてあげてもよさそうなものを。
この背景には、異形のもの全てを鬼と称していた当時の風習もあろう。舞台で可能な演出の限界も、また、狂言師と観客との間で結ばれた“これで鬼と見なす”という暗黙の了解もあろう。それでも、この中途半端で滑稽な“鬼”の姿には、大人のほろ苦い変身願望が垣間見られるような気がしてならない。

幼い頃の変身願望は単純だ。「私がもし私でなかったらどんな人なんだろう」「もし違う人生だったらどんな生活なんだろう」お姫様とか、正義の味方とか、ありきたりだけど幸せな夢。今の自分を丸ごと脱ぎ捨て、ほかの誰かの人生へ、ひとっ飛びに変わってしまう。そんな変身を思い描いて胸躍らせた経験は誰にでもあるだろう。
それが大人になってしまうと、それまで歩んできた分、自分自身を捨てられなくなる。全く違う自分になりたいわけではない。ただほんの少し、変わりたい。つらい過去をそぎ落として、心の痛みを取り払って、コンプレックスを切り離して。そしてつかみ取りたいのだ、今の自分にない輝きを。

太郎冠者も、全くの別人になりたかったわけではなかろう。ちょっとだけ、ほんのひとときでいいから、捨て去りたかったのだ。自分の惨めな一部分を。捨て去って、大きく強くなりたかったのである。彼の変身は積極的なものではない。身から出た錆とでもいうのだろうか。自らのついた嘘のために、切羽詰って鬼に扮することを余儀なくされるのだから。もちろん主人を脅かして自らの地位向上を図ろうなどというのは当初からの目的ではなく、なりゆきである。しかし、たとえそうであっても太郎冠者は恐れひれ伏す主人を前に、面の下で満面の笑みを浮かべていたことだろう。何も太郎冠者は普段から主人をやりこめる方法ばかり考えていたわけではあるまい。ただ言えるのは、常日頃から自分の扱いには不満を抱き、いつかもっと良い扱いが来る日を夢見ていたのではないかということだけだ。それでいて、鬼に化けていてもなお、使用人として歩んできた道を、そしてこれから歩まなくてはならない道を、自身から完全に切り離すことのできない太郎冠者の姿は、哀しくも、また、たくましくも見える。

恐れおののいて平伏する主人を見下ろし、その鬼は言った。
「太郎冠者を大切にしろ」
「好きなだけ酒を呑ませてやれ」
鬼の願いは、どこまでも使用人のものだった。
その日のうちにでも日常に戻ることを頭のどこかで考えていた。この瞬間だけ、非力な立場を、こき使われる生活を、自分自身から切り離したかった。彼の夢は、それだけだったのだ。

水辺に見た夢。

水辺とは奇妙にねじれた空間だ。暗がりで光を放ち、自分によく似た像を結ぶ。鬼が宿り、美人が宿り、そして人の願いが宿る。
不思議なことに狂言において人が鬼となるとき、そこには清水が関係してくる。湿ったところは鬼の棲み処と言われるが、どうやら清水とは、人の変身を叶える地でもあるようだ。
太郎冠者の時代から、さかのぼること数百年。絶世の美女が平安朝に降り立った。小野小町その人が白粉を溶いた伝説の残る清水は化粧清水と呼ばれ、諸所に存在している。

化けるために粉を塗って線を引いて、少し違った自分をよそおう。千年以上も前から人はこんな事を繰り返してきたのかと思いながら、私は今朝も鏡像を見つめる。相も変わらず硬質なまなざしを向けてくる、くっきりとしたもう一人の私。
「これがあなたなのです」
「これがあなたなのです」
化粧をしながらも変身の余地などないことを宣告されているような気になって、朝のツアーは終着駅にたどり着く。
これが水面の像だったらあの刺すような視線も感じることはないだろう。細い輪郭、揺らめく姿。ふっと息を吹きかけたら、あっという間にその姿は揺らぎ、変化の予兆とかすかな希望が水の中から顔を出しそうだ。

かつて、農村の娘は儀礼や祭りなどのあるハレの日しか化粧をしなかったという。いわば化粧は非日常の儀式。特殊な日・特殊な時間における、彼女たちの変身だった。清水のほとりに膝をつき、身を乗り出すようにして特別な日のため支度をしてきた幾多の女性。彼女たちは清水に人を変える力を見ていた。たよりない像に願いをかければ、その姿はゆらゆらと形を変えていくのではないか。茂みの中で静かに光る清水は、湧き出る水とともにそんな夢を運んでいたのであろう。

水面に映る像は、そこにあるようで触ることはできない。細い線、薄い色。いるようでいない今の私。陰に揺らめく私に似た誰か。少しだけ、の変身願望が叶えられるような気がしたり、いくら手を伸ばしても届かない気がしたり。

変わりたい。人の願いはいつまでたっても変わらない。何百年も前から、何千、何万という人が天を仰ぎ、地を見つめてはため息をついてきた。別人になんてならなくていい。ただ少しだけ、痛みを拭い去ってくれたら。ただ少しだけ、希望を叶えてくれたら。降り続く雨は、そんな思いを溶かして、自身の輪郭をぼかす鏡を作ってくれる。

夕刻、帰宅して足元を見ると、あのさざなみを寄せていた小さな鏡は地に吸われたか、天に還ったか、跡形もなく消えていた。あとにはそっけないアスファルトが残るばかり。もう誰の姿も映らない。
その昔、女たちの化粧を助け、太郎冠者を鬼に変えた清水。静かな森に湧き出たその水はいつしか地に消え天に消え、時に降り来てまた湧いて出る。巡り巡って、いったいどれだけの夢を映し出してきたのだろう。

水面に棲む彼女ともしばしのお別れになりそうだ。今度ここに水たまりが落ちてくるのは、いつになるのか。それでも数え切れない願いを溶かしてきたこの水は、必ずまた、天から地からやってくる。暗がりでその縁にわずかばかりの光を宿しては、人々の目を惹きつける。そうして誰かの願いを映し、ひとときの夢を生み出すのだ。

《参考》
『鬼の研究』知切光歳 大陸書房 1988
『狂言 落魄した神々の変貌』戸井田道三 平凡社 1973
『狂言総覧』安藤常次郎他 能楽書林 1973

おわりに。

学生時代、能・狂言サークルに所属して、狂言方(狂言パート)を担当していました。主人公の多くは、今回のように「太郎冠者」、この名前は、”使用人1号”といった意味合いでしょうか。主人の財産(つまり、主人の一存で売り買いされちゃうこともある)としてしか扱われない存在なんです。

だから、その生のままならなさを笑いに変えたという意味において、狂言そのものが、夢や願望を映す鏡だったのかもしれないのですが、太郎冠者の立ち居振る舞いには、ほとんど哀愁といったものが感じられません。使用人という立場の中で、いかに怠けるか考え、いいアイデアが浮かんだら即実行。叱られそうになったらせーので逃げちゃう。そんな愛すべきキャラクターなのですが……、この「清水」という狂言で見せた姿は、ちょっとだけ、そう、ほんのちょっとだけ、哀愁漂うんですよね。鬼に変身した太郎冠者は、すぐに覚めると分かっている短い夢のなか、主人に言います。「太郎冠者をもっと大切にしろ」、どこまでも使用人の自分が捨てきれない彼の変身、そこが面白さでもあり、なんだかほろ苦くも感じられたりして。

長くなってしまいましたが、今日の話はこれでおしまいです。少しでも古典世界や狂言に興味をもっていただけたら嬉しいです。皆さま、素敵な連休をお過ごしください。

学校コラムをまとめた一冊、
『おしゃべりな出席簿』もよろしくお願いいたします。

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