それが僕にとっての悟りだった。
女性のO様は「今までは悟らなくちゃいけない、と思っていたが、今はそういうことを感じなくなった」と話した。
さらに「最近、三ヶ月ほど仕事をせずに、暇な時間を過ごしていた。瞑想やワークをして思考を減らすための努力もたくさんした。さらに、一時期は山にひとりで籠って暮らすことも考えたが、結局、今は新しい仕事を始めて、人と関わることをしている」
と言う。
僕はO様に賛成し、大丈夫です、と言った。
そもそも、「悟り」という言葉にちゃんとした定義はない。
最近流行っているように思考がなくなることが悟りなのか?
たとえば、O様が
「今まで悟るため──思考を減らすための努力をしてきた。そして山に籠ろうとまで思った。しかし、今は人と関わりたいと感じる」
と思われたのであれば、それがO様にとっての悟りではないだろうか?
実は僕もO様に近いことを感じている。
結局、何をやるにしても他者が介在していると、喜びが何倍にも増える、とこの頃知った。
結局、この地上の世界──現象の世界で肉体を持って生きることの幸せは他者と交流することの中にしかないのではないか?と思う。
zoomで瞑想会やサットサンを開き、他者と「交流」し、笑ったり、時に涙する時、僕は元気になる。
「交流」は交わって、流れる、と書く。
他者と交わると、エネルギーが流れてゆく。そのエネルギーは僕たちを癒している。
O様はzoomの画面に登場された時と比べて、対話するうちに明るくなられていた。
それはO様が思考がなくなって悟りの境地に至ったからではない。
みんなの前で、自分のことを話したから明るくなったのだ。
つまり「交流」したから。
幸福と言うのは、自動思考があるとか、ないとかを越えている。
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女性のT様は「カルマを越えてゆきたい」と話す。
カルマと言うのは、特定の行動のパターンだ。あるひとは、引っ込み思案でいつも孤独でいる。
そういう人生を何世もかけて生きていた魂は今世はみんなと関わるぞ!と思って生まれてくる。
だが、カルマのパターンに引っ張られて、O様が言うように「山に籠って、ひとりで過ごすほうが楽だ……」となる。
つまり、それは僕のことなのだが、僕は今世、何故か人と関わらないといけない場面が何度も出てきて、それから逃げると、皮膚に病気が起こる、というパターンを繰り返した。
そして、占星術の専門家からも「今世あなたは人前に出てゆく方が運が開ける」と言われた。そして、僕はそのようなことを今している。
T様は演劇を始めたことを話されていた。
僕も演劇をやっていた。芝居、歌、ダンスを通じて、感情を表現することを学んだ。
それはある種のセラピーだったのだと思う。おそらく、僕は何世にも渡って、自分の感情や思いを内側にためこんでいたのだろうと思う。
そして、ひとと交流することは楽しいんだな、人間を生きるのって、面白いな、と思うようになった。
それが僕にとっての悟りだったとも言える。
だから、悟りと言うのは、多面的なものなのだ。
決して、思考を止めればいい、という問題ではない。
そのひとにとっては思考を止めることが悟りだったわけであって、他のひとはちがう。
あるひとはクンダリーニを上昇させる道を進むかもしれないし、あるひとは、座禅のようにひたすら静かに座る道を行くかもしれない。
あるひとは信仰の道である神の愛に人生を捧げるひともいるし、
あるひとは健全に社会人として生きて、朝、般若心経を唱えるという精神世界と物質生活を両立する道を行くかもしれない。
本当にひとそれぞれの道が用意されており、正解はない。
有名な誰かが「〇〇をすれば悟れる」と言ってたとしても、それを鵜呑みにしないでほしい、と思う。
そうでもなければ、延々とセミナーやセッション、オンラインサロンに参加することになり、お金と時間を浪費してしまう。
「こうすれば悟れます」、「この呼吸法をすれば悟れます」と謳う発信者は確かにその方法で悟ったのかもしれない。
でも、そのひとにそれが起こっただけであって、他の人には合わないかもしれないのだ。
結局、何が正解かは自分の内側(ハート)が知っている。
参加してくださったacim☆miracleがサットサンの感想を書いてくれました。
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