悲しみを愛に変容させる。
男性のS様は長年、精神世界の探求をされてきた。ヒーリング、チャクラ、座禅、瞑想……
「時間もお金もたくさんかけてきたんです」とS様は言う。
僕の父親と同年齢のS様の表情は、少し疲れているようだった。
「ハートが何か分かりますか?」
僕は対話をする時、必ずハートについて話す。
なぜなら、ハートは根源だからだ。ハートという真我から自我意識が生まれて、あらゆる心の動き、想念が沸き起こる。
もし、この「ハート」に帰ることができれば、救済と解放が待っている。
僕が「ハートに安らぐということは静かに何もしないでいる事なんです」と言うと、
S様は「お腹のあたりに固まりがあって、なかなかくつろぐことができないんです」と答えられた。
「感情が身体のなかにブロックをつくっています」
S様は頷きながら、「怒りの感覚がある」がおっしゃった。
さらに、「怒りのもっと深い部分に悲しみや切なさがある」とS様は付け加えた。
S様は穏やかで優しそうな表情をずっと浮かべられていたけれど、にこやかで感じが良い人は感情を押し殺していることが多い。
つまり、感情を殺して世間に適応しなければ、生きていけなかったのだろう、と思う。あらゆる大人がそうであるように……。
怒りというのは、表層にあらわれるもっとも分かりやすい感情だ。でも怒りの奥深くには、長く抑圧されてきた別の感情がある。
それからS様はこう打ち明けてくれた。
「幼い頃、父親から理不尽な扱いを受けてきました」
どうして愛してくれなかったのだろう、理解してくれなかったのだろう、という幼少の頃の体験は悲しみや切なさ、惨めさを生じさせ、それはやがて怒りに変わる。
だから「怒り」はあらゆる感情を潜在的に孕んでいる。
そして、思考は物語(ストーリー)に入ってゆく……。
あの人があの時、わたしにあんなことをしなければ……。
確かにそれは厳然たる事実だ。
でも、もし、物語に入っていかず、今、この瞬間、身体の中にある感情をありのまま、完全に抱きしめたらどうなるだろうか?
別に、その人をゆるそうなんて思わなくても良い。
ただ、ありのままの痛みと苦しみをこの瞬間、受けとめることができれば、そのひとの内側で変容が起こる。
長年、「かたまり」として存在してきた感情が溶けるのだ。
それはハートの深い部分で愛としか言いようのないあたたかさに変容する。
受容は、受け入れて、溶かす、と書く。
苦しみを身体感覚として、しっかり感じた時、それは溶けて、内側に安らぎをもたらす。
「それらの感情を全部受け容れた時、本当の意味でハートがひらくんです」
と僕は言う。
苦しみが恩寵だというのは、そのためなのだ。
苦しみが無ければ、ハートの奥深くにたどり着くことはできない。
喜びや楽しみは人生に明るさをもたらす。それは必要だ。
でも同時に、本当の意味でハートがひらくためには、誰にも理解できない苦しみや悲しみを一人で静かに抱きしめなくてはならない。
「お腹にある『かたまり』が癒えるのは時間の問題だと思います」とS様は言い、涙ぐまれていた。
もちろん、体操などをすると身体は柔らかくなる。
でも、身体を緊張させている感情を受容しないかぎり、本当の意味でのリラックスはできないのではないだろうか?
僕はS様といっしょに下腹部で安らぐためにゆったり呼吸する時間をもうけた。
思考がつくりだす物語から解放されると、下腹部(ハラ)にエネルギーが落ちて来て、深い安らぎが生まれる。
S様は「あなたが瞑想のガイドをしてくれたおかげで深くくつろぐことができました」とおっしゃった。
〇
僕はある段階で誰かに自分の苦しみを理解してもらおうと思うことをやめた。
自分の強すぎる感受性、家系に遺伝している身体的な弱さ、親にもっとこうして欲しかったという思い。
これらを自分の中に抱きしめて、受け容れた時、変容が起き、静かな安心感に包まれた。
「丹田を武術のように鍛えることもしてきた」とS様はおっしゃった。
僕は、ヨガ行者や武術家のように頑張って、丹田を鍛えようとしたことはない。
くつろぎは頑張って鍛えた先にあるのではない。それは、優しさの先にある。もっと自分に優しくすることだ。
S様はもう、鍛えること、頑張るということを止めて良いのだ、と思った。スピリチュアルな探求に時間とお金をかけることも終わる。
静かに感情を受容し、今ここでリラックスすること。ハートの恩寵は頑張ることや、努力することを手放したときにふりそそぐ。
その恩寵によって、ハートの安らぎである、静寂としての「ほんとうのわたし」がたちあらわれる。
それが体感として分かるのであれば、もう瞑想はしなくても良いのだ。
S様の表情は一時間前よりも、やわらかくなっていた。
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