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全てはハートに帰るために。

先週、瞑想会を開きましたので、その振り返りをしたいと思います。長くなりますが(3300字以上)、精神世界の探求をされている方にとっては有益な内容になるかもしれません。

1.瞑想したことがないひとはいない。


瞑想を今までやったことがない、と言う方々がおられたのですが、「ザ・瞑想」をやったことがないひとでも、いわゆる「瞑想状態」を経験しています。ほぼすべてのひとがです。

参加して頂いた女性のひとりはピアノの講師をされている方でした。その方ははじめて瞑想をされたのですが、私はその女性に「ピアノを弾いている時、瞑想をしているんですよ」と伝えました。

「ピアノを演奏している時の呼吸の状態を思い出してみてください」とお訊ねすると、その方は「呼吸が深くなって、呼吸の回数も普段より少なくなっている気がします」と答えられました。

瞑想中と言うのは、呼吸の状態が変化しています。呼吸が長くなり、呼気と吸気の合間のギャップが生まれている状態です。

この時、集中力が増しているので、自動思考が湧いてきません。一心集中して何かをやっている時と言うのは、瞑想状態なのです。

歩いている時、あるいは料理をつくっている時なんかも瞑想状態になりやすいです。ですので、瞑想は知らず知らずのうちにみんなやっています。

以前、お話した女性はこんなことを言っていました。「わたし、Excelでグラフ表をつくる事務作業をしているのですが、その時、心がとても穏やかなんです」と。

そうです。彼女は瞑想しているのです。みなさんも今度、集中して何かやっている時の呼吸の状態を確認してみてください。

2.瞑想はただの通過点に過ぎない。

先ほど書いたように、瞑想は知らず知らずのうちに誰しもが行っています。思考がない一心集中状態です。

もちろん、その間、心の平穏は得ることができます。

しかし、瞑想をやめてしまうと、その後は苦しいですよね。つまり、集中状態が終わった後です。

本を集中して読み終わった後、楽器を集中して、演奏し終わった後、いきなり現実世界に引き戻されることがあると思います。

そして、人生の苦しみが始まります。

実は、私は「瞑想を教える」というよりも、根源的な平和を得る方法をお伝えしたい、と考えています。ですから、「瞑想会」という名前も変えます。「ハートに帰る会」に変えます。

そうです。瞑想よりも大事なことがあるのです。

それは気づきとハートです。

「心はほんとうの自分ではない」ということを聞いたことがあると思います。「気づいている存在こそほんとうの自分」だと。

思考は気がつかれたまさにその瞬間、消えてしまいます。

もし、心=思考がほんとうの自分だったとしたら、あなたはいたり、いなかったりするとても不確かな存在だと言うことになりませんか?

ですが、気づきというのは、しっかりと在ります。それは頭にあります。

私たちは自分の人生と一体化しているのです。それが苦しみを生んでいます。

ドラマや映画を観て、感情移入している時、ふと、「ああ、これはフィクションだったんだ」と気づいて、我に返ることがあると思います。

ですので「気づく」こともみなさんやっているのです。

ですが、その先があります。

それは「気づきに気づく」ということです。

普段、思考が湧いてきてうるさい時、「あ!今、思考にのめりこんでいるな」と気づくことがあると思います。

その時、気づくだけではなくて、「気づいている自分というのはどこにいるんだろう?」と内側に返すのです。

すると、どうでしょうか?気づき自体も消えて、ただ在る、と言う状態になります。

この作業を日常からやるのです。すると、「気づきに気づいている状態」が持続するようになります。

テレビの画面を観ながらも、意識は視覚が捉えている対象物とは逆を向いているのです。

もしかしたら、この時点で、ハートの感覚が分かるかもしれません。

そのうち、世界が映画のように見えはじめます。夢の中にいるような感覚が出てきます。

3.すべてはハートに帰るため。

別の参加者の女性から、

「ハートが閉じてる時と開いている時があるのです。あなたの記事を読んでいる時、ハートが開くと言う感じがします。慈悲の感覚も湧いてくるのですが、そのうちに閉じてしまいます」

と言う質問を受けました。

この質問はとても印象的でした。

私が言うところの「ハート」と言うのは、閉じたり、開いたりするものではありません。

私は「ハートをひらく」という言葉を使ってきたので、勘違いさせてしまったのかもしれませんが、閉じたり、開いたりするのは、「ハート・チャクラ」です。別名、「アナハタ・チャクラ」と言います。

ハートの「在る」という感覚は消えません。ずっと在ります。

しかし、感じられない時はあるのです。

今まで何度も書いてきているのですが、人生の成功や快楽的なことを追い求めている時、平穏そのものであるハート・センターの静けさは感じられません。

ですから、閉じたり、開いたり、しているというよりも、感じる時と感じられない時がある、と表現した方がいいかもしれません。

「ハート・チャクラ」、別名、「アナハタ・チャクラ」はハート・センターよりももっとドラマチックな感じがします。

そこは確かに慈悲心や愛情と関わっています。

私はヨガをやってきたので、分かるのですが、ここのチャクラに集中して呼吸をすると、エネルギーの動きが感じられます。

でも、ハート・センターは呼吸によって、開発するようなものではありません。

ハート・センターは人間的な感情とは関係がありません。

人間的な感情を越えた静けさがある場所です。それは愛に似ていますが、とても静かな愛です。

対象が存在しない愛、と言ったら良いでしょうか?

ただそこに在る、という感じです。

ですが、あまりそのちがいを気にする必要はないと思います。

何となく、安らぎを感じる場所と思って頂いて構いません。

ちなみに、瞑想会の翌日、ヨガのクラスに参加して、年配のクリヤ・ヨガの講師の方に「ハート・チャクラとハート・センターのちがいはなんですか?」と訊いたのですが、あまり分かっておられない様子でした。

そのヨガのクラスはチャクラを開発して、エネルギーを流すのが目的です。

ちなみに、チャクラをひらくことは悟りとはあまり関係がないと思っています。

エネルギー体験にはキリがありませんし、エクスタシーを感じてしまうと、その体験にしがみついてしまうことで、優越感などが生まれ、悟りからほど遠くなる可能性があります。

悟りはエクスタシーではなく、静けさのことです。

4.最も簡単にハートを感じる方法。

ここまで長らく書きましたが、よく分からない、という方へ。

今、この瞬間、くつろいで座ってみてください。そして、深く息を吐いてください。

まさに今、あなたが吐いているその呼気が最後の呼気だと思って大切に吐くのです。

ハート=神さまに「お願いします」と、いのちを預けるよう意図すると良いかもしれません。

呼気を預けることが明け渡しです。

ひとは夢や希望を持っています。素敵なパートナーと出会うこと、高収入の仕事を得ること、名を残すこと、はたまた、「悟りたい!」などへの期待があります。

特定の期待がある時、ハートは感じられません。

ドキドキやワクワクは感じるかもしれません。

ですが、それは一時的なものです。

ほんとうの幸福は今この瞬間、あなたがリラックスして息を吐き、「わたしは何にもしなくて良いんだ」と明け渡すことで感じるものです。

やがて、息を吸うことがやってくると思いますが、この「明け渡しの呼吸」をすると、呼吸やいのちそのものに対する「ありがたみ」のようなものを感じるはずです。

そういう意味で、感謝している時はハートに安らいでいる、と言って良いと思います。

ハートは「今ここ」にあります。

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今週も瞑想会(ハートに帰る会)をやります。いきなりですが、明日の20時から30分ほど行います。無料です。

あと、「土日にやってほしい」と言う声がいくつかありました。

今週の土日は空いていますので、「この日時が良い」というのがあれば連絡してください。

naokifloweroftheheart@gmail.com

一番最初に連絡をくれた方の希望時間に合わせて開催します。

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