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泣いてしまう自分をゆるしてあげる。

 昨日、お話をした女性のAさんから「苦しみという感情とどのように向き合えばいいか?」という質問をされた。

 僕は普段、苦しみを取りのぞこうとせず、抵抗しないで感じています、と答えた。

 それでも苦しいものは苦しいのだ、とAさんは言った。もちろんだ。苦しいものは苦しい。

 興味深かったのは、Aさんが重い感情のなかでも「悲しみであれば、受けとめられるのだ」と言ったことだった。

 僕もそれに同意した。確かに、悲しみはハートに意識を置いて優しく呼吸してあげると、癒えてゆく感じがある。でも、苦しい、という感情はどうにもならない。

 Aさんは今まで勉強してきた瞑想や身体の感覚を感じるなどのワークを色々試しているが、上手くいっていないようだった。

「苦しい、という感情が身体のなかで固まってしまって、小さな子供のように、動かないの」とAさんは言うので、咄嗟に、

「エネルギーが身体の中で停滞しています」と答えた。

 Aさんは確かに瞑想やワークをたくさんやっている。でも状況があまり改善していない。そして、重い固まりが身体のなかにある、という。

 直観的に、Aさんの身体のなかのエネルギーが動きたくてうずうずしているのだなと思った。だからエネルギーを循環させる必要があった。

 何かやりたいことはありますか?と訊くと、Aさんはじっと考えこんでしまった。

 「やりたいことは頭で考えるものではありません、ただ、ふいにこれをやりたいな、と思うことを行動に移してみるだけです」

 するとAさんは「海に行きたい……、」と言った。よし、それでいいぞ!と僕は思った。しかし、Aさんは海に行っても瞑想をしてしまうんです、と答えた。

 その時、僕はAさんの問題が分かった。内側を見すぎていることだ。精神世界のことに没頭しすぎると、エネルギーが停滞する。

 ときに運動や表現活動、など、外に向かってエネルギーを発散する必要がある。それを言うと、カラオケに行きます、と言う。それだ!と僕は思った。

「でも、歌を歌っていたとしても、悲しくなって泣いてしまうんです。実はこの二カ月ほど毎日のように泣いています。あなたのnoteを読んでも泣いてしまいます」とAさんは言った。

 ひとは自我(エゴ)が人生を明け渡し、大いなる自分に目覚めてゆく過程で悲しみの浄化が起きなければいけない、と僕は答えた。

 悲しくて泣いてしまうというのは、あなたのハートがひらき、もっと大きな意識に目覚めてゆく過程なんですよ、と言った。

 「悲しみや苦しみがあるのは、ダメで取り除きたいと思っていました」とAさんは言う。

 当たり前だけれどひとはずっとポジティブではいられない。

 実際、泣くのを我慢して感情をため込むよりも、泣いて泣いて泣きじゃくって涙を流し切った後、胸がすっきりしないだろうか?

 悲しくて涙が出てしまうというのは、Aさんが感情を癒そうとしてたくさんのことを努力してきた結果で、いま大きな浄化が起こっているんです、とお伝えした。

 「実は精神世界の勉強をしはじめてから、外側のことに目移りするのはいけないんだ、と思っていたんです」

 たぶん、それが問題を引き起こしている。

 そもそも我々が生まれてきたのは、内側のことをやるだけではなくて、エネルギーを外に使うためにも生まれてきている。

 僕だってこうしてnoteで文章を書き、知らないひととお話しているけれど、そうした表現活動をすることで、エネルギーを外側に放出しているのだ。

 動物を見てみると分かる。

 動物は思考ではなく、本能や身体感覚に沿って生きている。大声をあげたり、走りまわったり、飛び跳ねる。

 あれはエネルギーを外側に発散させているのだ。そうして精神的な健康を保っているのだと思う。

 だからくれぐれも瞑想ばかりしないでほしい、と多くのひとに言いたい。

 Aさんのエネルギーは外側に動きたがっているのに、外側のことをしてしまうと、悟りが起こらなくなってしまうと思い込んで苦しんでいたのだ。

 だから、カラオケでも海に行くのでも良いけれど、とにかく、エネルギーを回すことだ。僕だってランニングをしたり、歌を歌ったりして、しょっちゅう身体を動かしている。

 ふたりで静寂を共有したりワークをした後、「Naokiさんは今、苦しくないのか?」と訊かれた。

 僕は「執着を手放してから楽になった」と答えた。今は、自分と誰かのためという二つのバランスを保ちながら生きている。

 「願望や執着を持つことはいけないことなのだろうか?」とAさんは訊き、僕は「持っても良いです」と言った。

 普段、noteを書いていて、「あなたの文章は良い」と言われることがあるが、それは僕が作家になりたいという願望に執着していたせいだ。

 あと、対話していて、直観的にこのひとは〇〇をした方が良いんじゃないか、と思うことがあるけれど、それはきっと小説をたくさん読んできたからだと思う。

 そのせいで目の前のひとのことを深く洞察する能力がいつの間にか自分に備わったのだと思う。

 だから今、あなたがやりたいと思っていることは何でもやると良いのだ。それがいつか自分の思惑とは別のところで花ひらく時がくるのだから。きっと願望すらも宇宙というか神さまから持たされているのだと思う。

 だから、安心して生きれば良いのだ。安心して遠回りをすれば良い。

 すべてはシナリオ通り進んでいる。

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 最後、Aさんに「あなたがやっていることは、ちゃんとお金を取るに値する」と言われた。「noteを読み始めてから、この人はセッションか何かの仕事をやっているだろうから申込みをしようと思っていたけれど、そうではなかった」とも言われた。

 なるほど、と思ったのは無料だと逆に申込みに遠慮してしまうひとがいる、ということだ。

 僕は今のところ、お金を取ることは考えていないし、仕事にするつもりもない。

 なぜなら僕は誰かに何かを教えたいというよりも、ただ友達のように話したいだけなのだ。

 僕は、いつも「あなたはわたしなんですよ」と言う。

 対話をすると、最初の三十分は他人の感覚なのだけれど、時間が進むにつれて、「ああ、このひとは自分なんだな」という感覚が出てくる。

 その感覚が出てくると、そのひとと深くつながって、そのひとに必要な言葉も出てくるのだ。

 漠然と、友達を増やしたい、という思いを持っている。いや、自分の兄弟姉妹を見つけ出したい、と言う言葉が近いかもしれない。

 もちろんお金だってほしい。親孝行だってできる。親を楽にさせてあげられる。でも今はただ兄弟姉妹たちに会いたい、と思っているだけだ。

 お金なんていらないという人はいないと思う。そんなことを言うひとは噓つきだ。お金は必要だ。でも、僕は正直に言って、お金の稼ぎ方が良く分からない。それにお金がなくなったら、その時はその時。なるようになるさ、きっと。

naokifloweroftheheart@gmail.com

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