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森鷗外と日清戦争・台湾征服戦争・日露戦争①【高校日本史を学び直しながら文学を読む9】

 この時期の日本史を扱う場合、タイトルは「日清・日露戦争」などが多いのではないかと思いますが、あえて僕はそこに「台湾征服戦争」を入れます。台湾征服戦争は、とても重要な歴史だと思うのですが、ほとんど知らないという人も多いのではないでしょうか。その主な原因として、中学・高校の歴史の授業があるのではないかと思います。特に、高校の日本史は、中学の歴史よりはるかに教科書の記述内容が多いにもかかわらず、日清戦争後の台湾の状況を本文で記述せず、注で少し記すだけという教科書会社すらあります。そのため、社会科の教員が授業で台湾の内容をほとんど扱わず、それにより重要な歴史と認識する人が少なくなっているのではないかと推測します。
 今回は、日清戦争・台湾征服戦争・日露戦争という3つの戦争について、僕の高校日本史の授業の一部を紹介しつつ、文学作品を読むというよりは、文学者たちが3つの戦争にどう反応したかを読んでいきます。

 1890年、第1回帝国議会の施政方針演説で、首相の山県有朋は、国家の独立を維持するためには、国境である「主権線」を他人の侵害から防衛するだけでなく、主権線の維持に密接な関係がある「利益線」を守らなければならないと主張しました。山県が利益線として想定していたのは朝鮮半島でした。すなわち、国土防衛のための軍事力という考え方では駄目で、他国を確保するための軍事力が必要だということです。自国の主権を主張しつつ、隣接地域の主権は制限ないし否定しようとするものであり、自国の主権の「防衛」という言葉も、実際は膨張が企図されていました。
 山県が事前に閣僚にみせていた「外交戦略論」では、朝鮮をおびやかすロシアの進出を阻止するため、清と提携して朝鮮へ干渉し、これを永世中立国にすべきであると論じていました。しかし、施政方針演説で山県はこの点にまったく触れず、「利益線」論だけを展開し、軍備増強の必要性を強調したのです。

 当時の朝鮮政府は「近代化政策」を進めていたものの、支配層の土地所有制度の変革にはいたらず、地方は疲弊するばかりでした。朝鮮民衆の不満が高まるなかで、民衆宗教の「東学」の影響が広がっていきます。東学とは、キリスト教を意味する「西学」に対抗する名称です。民間信仰に儒教・仏教・道教などをとりまぜ、人間は平等だとする思想を掲げ、外国勢力排斥を主張しました。
 1894年2月、日本や欧米の侵略を避難し、朝鮮政府の支配に抵抗する農民が蜂起し、4月頃に大規模化しました。東学の信者が関与していたことから、以前は「東学(党)の乱」という名称が使われることが多かったのですが、多くの農民が参加して大規模化していくことから、現在では「甲午農民戦争」という名称が定着し、ほとんどの高校教科書が甲午農民戦争と表記しています。
 朝鮮政府は甲午農民戦争の鎮圧のため、清に出兵を依頼しました。ここで朝鮮が清を頼った背景を少し説明します。朝鮮は、清を中心とする冊封体制の最も重要な構成国でした。冊封体制とは、中国の皇帝が周辺諸国の首長に対し中国の官位や称号を与えて名目的な君臣関係(上下関係)を結ぶことで、そのような秩序を華夷秩序とも呼びます。1880年代以降は、朝鮮が日本や西洋諸国との関係を整理していたこともあり、清の朝鮮に対する影響力が高まっていました。以上のような背景があり、朝鮮政府は国内で発生した民衆反乱の鎮圧を清に依頼したのです。
 清の派兵が予想される状況において、日本もまた朝鮮への出兵準備を進めます。1894年6月2日の閣議で出兵が決まり、5日には大本営が設置されました。天皇が直轄する大本営の設置は「戦時」にしか行われないものなので、形式的には、日本は日清戦争開戦前から戦時体制に移ったと言うことができます。ただし、この段階では首相の伊藤博文は清との軍事衝突を目的としてはいません。公使館警備および自国民の保護を出兵の主な理由としつつ、兵を利用して朝鮮における勢力挽回および伸長を図ることも視野に入れての出兵でした。
 しかし、日本軍が到着したときには農民反乱が沈静化していました。このとき第2次伊藤博文内閣は第6議会を解散した直後であり、総選挙をひかえていました。海外へ大軍を派遣したにもかかわらず、何の成果もなく撤兵することは避けなければならないという意識が働きます。伊藤内閣は、外交的成果を得るために、強硬に朝鮮政府への内政改革を要求しました。日本の強引な行動に朝鮮政府や清は反発します。朝鮮と上下関係で結ばれた清が日本の提案を拒否する意向であることがわかってくると、伊藤よりも強硬策・軍事力行使に傾斜しやすい陸奥宗光外務大臣は、駐朝鮮公使の大鳥圭介に対し、清との衝突が不可避であると伝えています。日清戦争というのは長期的な計画のもとで始まるのではなく、場当たり的な対応が続く中で開戦に至ったと考えるべきでしょう。

 1894年7月23日、日本軍は朝鮮王宮を占領し、25日には清の海軍を奇襲攻撃しました(豊島沖海戦)。そして8月1日には日清両国が宣戦布告しています(日清戦争)。奇襲攻撃というと、1941年の真珠湾攻撃が有名ですが、日本の対外戦争が奇襲攻撃から始まることは多く、国民国家として初の本格的な対外戦争である日清戦争も、宣戦布告前の日本軍の奇襲攻撃から始まっているというのは知っておくべきだと思います。
 『読売新聞』『国民新聞』をはじめとする新聞・雑誌などのメディアが「義戦」という言葉を使い、日本の社会には、日清戦争は正義の戦争という声が広がっていきました。
 また、清との戦争は「文明」と「野蛮」の戦争だとみなされました。福沢諭吉は『時事新報』で、日清戦争が「文野の戦争」であると論じ、戦争支持を表明するとともに、自身も軍事献金組織化の先頭に立ちました。中国人は「文明の誘導者」である日本に感謝して当然であるとも主張しています。
 清軍は国軍としての統一性、部隊間の連携などが不十分であり、政府内部が開戦論で固まっていたわけでもないので、将官に士気の低い者もいました。一方、日本軍は兵站(補給システム)が未発達であり、両軍ともに近代の軍隊としては未熟な部分をかかえていました。
 9月の平壌開戦と黄海海戦で日本が勝利をおさめました。10月には山県有朋率いる第一軍が鴨緑江を越え、大山巌が率いる第二軍も金州を攻略するなど、戦局は日本側の優位で推移していきました。「日清」戦争という名称でよばれますが、ここまでの戦場は「朝鮮半島」とその近海です。
 11月、日本軍は清の領土である遼東半島の攻略作戦を展開し、大連湾から旅順口に向かいました。激しい銃撃戦の末、日本軍は旅順を占領します。その後、敗残兵を掃討する際に、捕虜の殺害、女性・子ども・老人を含む多くの民間人を殺害しました。この「旅順虐殺事件」は、イギリスの『タイムズ』、アメリカの『ニューヨーク・ワールド』などの欧米メディアが、残虐な大量殺人事件として大きく報道しました。欧米の報道に接した参謀本部は、使者を派遣して、大山巌に釈明を求めます。大山は兵士と民間人を無差別に殺戮したことを認めつつ、薄暮の市街地での戦闘であったことや、軍服を脱ぎ捨てて逃亡した兵士がいたので民間人と区別がつかなかったことなどを挙げて弁解しました。『時事新報』でも、民間人ではなく実は敗残兵が民間人を装っていたのだと弁解します。この弁解の仕方は、のちの日中戦争における南京事件の構図とよく似ています。
 1895年2月には日本軍が山東半島の威海衛も占領しました。こうして日清戦争は日本側の勝利で終わります。1895年4月、下関で日本全権の伊藤博文首相・陸奥宗光外相と清全権の李鴻章との間で講和条約が調印されました(下関条約)。条約の内容は、①朝鮮の独立を認める、②遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲する、③賠償金2億両(約3億円)を日本に支払う、④沙市・重慶・蘇州・杭州を開市・開港する、⑤開港場での日本の工場建設などを認める、というものでした。このうち、①によって、東アジアにおける伝統的な国際秩序であった、中国を中心とする冊封体制が崩壊しました。また、1896年に日本側に有利な不平等条約である日清通商航海条約を締結しました。

 日清戦争の従軍記者は114人に上り、軍の報道管制の下で、国民の戦意をあおる働きをしました。
 『武蔵野』などの作品で知られる国木田独歩は、『国民新聞』の記者として威海衛攻撃に従軍しました。「ヴヰクトリア澳に牛を買ふ」という題の1894年11月19日の通信では、中国人の印象を書いています。

  支那人は軍人を以て、悉く奪掠する者と思ひ
  定め居るなり。牛も鶏も豚も悉く隠して、酒
  々然と吾等に對す。(中略)殆んど吾を盗賊
  視する也。

 中国人はうんざりするほど猜疑心が強いと書き連ねている文章なのですが、なぜ中国人が日本の軍人に猜疑心を抱くのかという考察は、この文章からは全くみられません。
 正岡子規は、陸羯南が主宰する『日本』の記者として従軍し、「陣中日記」を残しました。1895年4月、すでに戦火が遠のいた遼東半島に足を踏み入れた子規は、次のように記しています。

  快き事いはん方なし。桟橋に兵站部の荷物運
  び居る支那人の百人餘りも群れたる中を推し
  分けて行くに日本人と見れば路を譲り殊に軍
  服を着たる我士官に逢へば驚きあわてゝ兩側
  に開きたる譽むる人は淳朴と謂ひ譏る人は意
  苦地無しと謂ひけん。

 中国人が日本人に道を譲り、特に軍人に対してはあわてて両側に開く様子に対して、「快き事いはん方なし」と優越感に浸っている文章です。

 軍医部長という立場で日清戦争に従軍した森鷗外は、「徂征日記」を残しています。全体的に淡々と観察を記録していますが、旅順虐殺事件の1か月後に旅順を訪れたときの記述が少しあります。

  雪ふる午前九時小樽號舶に乘りて大連灣を發
  す午後四時旅順口に抵る兵站病院を訪ふ所謂
  北洋醫院なり庄田喜太郎に面し各房を歴覽す
  日暮に至り舶に歸る途新西街を過ぐ岸邊屍首
  累々たり

 「屍首累々たり」の部分から、旅順虐殺事件後の惨憺たる状況が垣間見えます。また、「徂征日記」には、「一屍を焚くに松薪十五束を用ゐ約四時を費せり」という記述も見えます。しかし、戦争に関する鷗外の記述が豊富になるのは、日露戦争の際の『うた日記』を待たなければなりません。これについては次回扱います。


 1895年、台湾総督府が設置され、海軍軍人の樺山資紀を総督としました。19世紀末の台湾は、原住民が約45万人、中国大陸からの移民が約255万人、あわせて人口およそ300万人といわれています。樺山は、天皇の親兵である近衛師団とともに台湾へ向かいました。近衛師団長をつとめていたのは能久(よしひさ)親王という人物なのですが、能久親王について森鷗外が史伝『能久親王事蹟』を残しており、この作品については後述します。
 台湾では日本の領有に反対し、独立国を樹立する運動が盛り上がっていました。地方の有力者を中心に結集した人びとは、「台湾民主国」の建国を宣言し、抗日抵抗運動を展開していきます。日本軍はまず北部に進軍し、首府である台北が商業都市だったこともあり、短期間で占領します。しかし、その後、南に進軍した日本軍は地域住民の激しい抵抗にあいました。最も強く抵抗したのは、高山族と呼ばれる原住民でした。
 日本による台湾征服戦争は、各地で民衆の義兵によるゲリラ戦に悩まされただけでなく、風土病のマラリア、不衛生な水と食品が原因の赤痢、栄養不足が原因の脚気が蔓延したことで困難を極めました。
 台湾征服戦争がはじまってから5か月後、日本軍はようやく南部の台南を占領しました。1895年11月、樺山総督は台湾全島を平定したことを大本営に報告しますが、平定は表面上のものであり、その後も各地で民衆の抵抗は続きました。原住民の制圧に区切りがつくのは1915年であり、日清戦争後、日本は第一次世界大戦の時期まで戦い続けていたと言うことができます。台湾征服戦争での日本側の戦病死者は1万人を超え、日清戦争の犠牲者約2600人をはるかに超えます(原田敬一『戦争の日本史19 日清戦争』吉川弘文館)。台湾側の犠牲者は、1895年11月の台湾平定宣言までの期間だけで1万数千人に達していました。
 台湾征服戦争は、日清戦争後の掃討戦であることから日清戦争の一部であるという扱いを受けることが多いですが、期間の長さ、死者の数などを考えると、もっと大きな扱いにすべきではないかと僕は思います。

 1898年に第4代台湾総督に就任した児玉源太郎は在任期間が8年余に及びました。児玉は、民政局長に就任した後藤新平を信任しました。彼らが打ち出した新統治方針は、いわゆる「アメとムチ」の政策です。治安維持のためには残忍な暴力的弾圧を強行する一方、産業経済政策をおし進めました。ただし、台湾人のための近代化が目的ではなく、台湾経済を日本資本主義の経済構成に取り込むことが企図されていました。
 台湾は火薬の製造などに必要なセルロイドの原料となる樟脳やサトウキビの産地でした。樟脳は、他の国や地域で多くの産出が確認されていなかったことから、世界市場を独占すべく専売制を実施しました。精糖産業では、官営の台湾精糖会社と民営の大日本精糖会社が進出し、日本の砂糖需要を拡大しつつ発展していきました。
 また、アヘンの常習者の吸引を認め、中毒患者を確定して通帳を交付しています。アヘンを専売制とする一方、台湾でのケシ栽培は禁じ、必要なアヘン原料は海外から輸入しました。アヘンの専売収入は、日露戦争前には台湾での収入の3割を占めていました。
 児玉と後藤は、北部を弾圧し、南部は日本との同化を促すという南北分断政策を展開しました。1900年には、病没した能久親王を祭神とする台湾神社を創建し、台湾住民を教化する意図を明らかにしています。
 日清戦争前に日本語辞書『言海』を編纂したことで著名な大槻文彦は、『言海』では「国語」という言葉を使用せずに「日本語」という言葉を使用していますが、1897年に刊行した『広日本文典』では「国語」という用語と概念を示しています。植民地の民衆を「国民」化しようとする時期に「国語」が定着していったことは注目すべきでしょう。
 台湾総督府は、同化政策と並行して、ゲリラ戦の抵抗を軍隊・警察で抑え込み、1902年までに約1万人を処刑しました。1930年にも原住民の蜂起がありました(霧社事件)。霧社事件を題材とした『セデック・バレ』という映画もあります。台湾はこの後1945年までの間、日本の植民地でした。

 森鷗外は台湾征服戦争で戦病死した北白川宮能久親王の伝記『能久親王事蹟』を残しています。
 能久親王は、1847年、伏見宮邦家親王の第9王男子として生まれ、1858年には得度して輪王寺宮公現となっています。1867年に上野の寛永寺に入り、彰義隊が敗北した際に寛永寺を脱出して東北地方に逃避し、そこで奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されました。新政府軍への降伏後は蟄居を命じられますが、翌年には処分を解かれ、還俗して伏見宮に復帰します。その後、ドイツへ留学して軍事学を学び、留学中に北白川宮家を相続しました。ドイツ人女性と婚約しますが、政府から許可が下りず、帰国を命じられました。1895年に近衛師団長として台湾に赴任しますが、マラリアに罹って台南で死亡しました。これだけ激動の人生を送った皇族は珍しいと思います。
 ドイツ留学の経験があり、軍医として台湾征服戦争に従軍した鷗外は、能久親王の生涯に感情を動かされる部分があって伝記を書き残したのでしょう。この伝記の中で、台湾征服戦争の様子が描かれています。「徂征日記」と比べると、かなり戦争の具体的な記述が増えています。「敵を討ち家を焼き」「四時三十分敵の據れりし一家屋を爆破し、六時更に又二家屋を爆破しつ」など日本軍の行動が描かれ、さらに「年少き女子の男装して戰死したるを見き」のような記述もみられます。なぜ少女が男装しなければならなかったのか。鷗外はその理由まで書いてはいませんが、読む側の僕たちが理解するのは難しいことではないでしょう。

 幸徳秋水は、1901年に『廿世紀之怪物帝国主義』で、帝国主義は愛国心をタテ糸、軍国主義をヨコ糸にして織りなされる政策だと述べ、日清戦争後の愛国主義とナショナリズムの高まりに警鐘を鳴らしました。しかし、この後、「怪物」は成長し続けることになるのです。


  ②に続く
   ※主要参考文献は最後にまとめて記します。

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