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「清貧譚 太宰治」【6/23執筆】

↑青空文庫なので0円で読めます、オススメ


「以下に記すのは、かの聊斎志異の中の一篇である。」

元の中国の清代の短編小説集に、作者本人が空想を付け足したものが「清貧譚」であるとわかる。

主な登場人物は、才之助、三郎、黄英の3人のみであり、菊の花が物語の鍵を握っている。中国の短編小説が元になっているからか、ファンタジー要素あふれるストーリー展開であり、物語の中に引き込まれる。

物語の結末部分では、「みるみる三郎のからだは溶けて、煙となり、あとには着物と草履だけが残つた。」とあり、「黄英のからだに就いては、「亦他異無し。」と原文に書かれてある。」とあるが、なぜ三郎だけ菊の姿に戻り、黄英は人間のままであるかが明らかにされていない。

三郎は酒を飲んだことで元の姿に戻ったが、黄英は酒を飲まず、また才之助に愛されたことから人間で居続けることができたのではないか、と考えている。


奥野健男「解脱」(『お伽草子』、新潮社、昭和四十七年二月)では、「"菊づくりは誰のためにするの"それは芸術の永遠の矛盾である。」とある。

奥野は、清貧譚を通じて芸術家の根本的な問題について触れており、私自身もこの問題について深く考えていきたいと思う。

「清貧譚」から浮かび上がるのは、三郎のように生きていくために菊を咲かせて売るのか、才之助のように自分のために菊を咲かせるのか、という二項対立の問いである。

この問いは、芸術家のみならず文化全般によるものだと私は考えている。

果たして、絵を描くのは、菊をつくるのは、金稼ぎの為か、自分の表現の為か。つまるところ、大衆に迎合するか、自分の内なる声に耳を傾けるか、の違いであると私は考えている。

この問題は非常に難しい。大衆に迎合すると芸術家の納得のいく熱のこもった作品は生まれにくいが、生きていくためには大衆に迎合して絵や菊を売らねばなるまい。二律背反である。

奥野は、この問いについて「永遠の矛盾である。」と断言している。

「清貧譚」でも、この問いに対する解答が用意されておらず、まさに永遠の矛盾であると言えるだろう。



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