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「ロマネスク 太宰治」【5/26執筆】

↑青空文庫なので0円で読めます、オススメ


「ロマネスク」が面白いのは、仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎、それぞれ三者三様の形式で、「比類なき才能は、絶大な能力とともに、またその大きな責任をも伴う」という結末に達する点であろう。

しかも、それぞれの話が完結しているかのように見せかけて、最終的に3人が一堂に会する場面は興奮を抑えきれない。

仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎の3人が引き起こす事の顛末を見届けた私にとって、その3人が同じ場所で酒を酌み交わす場面は、まるで「時代と場所を隔てた歴史的偉人の3名が一堂に会して語らう映画」のようなものを見ているかのような心持ちであった。

アベンジャーズである。

「ロマネスク」を初読した際に、仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎の主人公たちに加えて、父親の存在が強く描かれていることに関心を持った。

なぜ、三作品とも共通して父親の存在が強調されているのか、些か疑問であったが、父親の息子への関心の有無、つまるところ他者から判ってもらえるような(もちろん本質的には誰も判ることなどできないのだが)環境下にいるかどうかによって差別化されているという解釈に納得した。

仙術太郎、喧嘩次郎兵衛は、父親から息子に対しての描写が多くあり、息子に関心を持って接していることが分かるが、他方で嘘の三郎は、父親の黄村との関係性が冷え切っている様子である。文字通り、関係性が冷えており、父子のあたたかな描写などは見受けられない。

心底驚いたのは、最終的には父親から関心を持たれていない嘘の三郎が場を掌握し、3人が1人に統一され、またそれが太宰治の分身であるという解釈の存在である。「三郎は太郎・次郎兵衛の物語を内側からものにする」というのだ。

三者の父親との関係性や一堂に会す場面を通じて、「根本的に人間は分かり合えない」というメッセージを強く伝えている「ロマネスク」において、3人が1人に統一されるという解釈には合点がいかないのもまた事実である。

また、タイトル「ロマネスク」の語義を読む前に調べたところ、「十世紀前後、西ヨーロッパに広まった美術・建築上の様式。古代ヨーロッパの要素に東洋趣味を加えた。」との意味がある。

こちらを参考にしたとばかり思っていたのだが、この意味での「ロマン」や「ロマネスク」というよりも、「荒唐無稽」、「俗物的」、「非現実的」などの解釈が主流で驚いた。美術様式は関係ないのだろうか?


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