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理論編(1) 「物語」と「小説」の違い(1) 国語教育における物語論の導入

 物語論(ナラトロジー)という観点から分析するとはすなわち、扱うテクストを物語としてとらえて、すなわち語り手が聞き手に語りかけているものとして、分析するということを意味する。そのことを理解する上では、まずは「物語」という言葉がどのようなイメージを持つ言葉であるかを確認する必要がある。
 そこで有効なのは、「物語」と「小説」の違いを生徒に問うことである。私たちは「物語」「小説」などの言葉を日常茶飯事に使っているが、どのように使い分けているだろうか。
 実際の授業を想定すると、まずは、身近な用例を生徒に挙げてもらう。たとえば、「物語を読む」「小説を読む」/「物語を書く」「小説を書く」などは、どちらでも使うだろう。一方で、「物語を買う」(△)/「小説を買う」(〇)はどうだろうか。本屋さんで、「物語を買いに来たのですけれども」と店員に尋ねるのは違和感がある。「物語」というと、本そのものを指すように感じられない。その本の中で語られるストーリーを指すような印象を受ける。「小説」という言葉も本そのものを指すわけではないはずであり、「評論」「エッセイ」といったジャンルを表す言葉であるようにも思われる。しかしながら、「物語」とは異なり「小説」は「本」という形態と親和性のある言葉であるといえよう。それは、次回確認する辞書的な意味からも明らかになる。
 やや脱線するが、なぜ私たちは書店で「小説」を買うことができるのだろうか。すなわち、「評論」ではなく「小説」を、迷うことなく、本を開くこともなく、見つけることができるのだろうか。それは、単に書店が明確に小説コーナーを作っているから、だけではない。そのようなコーナーがなくても、おそらく私たちは本を開かずとも両者を区別することができる。それは、本の表題や表紙、サイズ、フォント、帯などといった、テクストを取り巻く付帯状況が既に、それが小説であるか否かを示しているからである。このような付帯状況のことを、パラテクストと呼ぶ。このパラテクストの理論的分析に取り組んだものが、ジェラール・ジュネット『スイユ』である。ここでは、これ以上は深堀りしないが、このことからも「小説」が「本」という形態と関係性の深いものであることが分かるだろう。
 身近な例に戻ると、「物語を語る」(〇)/「小説を語る」(△)の場合、「物語を語る」であれば、そのストーリーを話者が話していく、という意味で用いられる。しかし、「小説を語る」とは、小説について論じるという意味となり、その小説のテクストを読むという意味にはならない。「物語を読み聞かせる」/「小説を読み聞かせる」(△)については、「小説を読み聞かせる」とはあまり用いないだろう。すなわち、「物語」という言葉は、声に出して(実際に声に出していなくても、声に出していると装いながら)語りかけることや、その語られたものを聞くというふるまいと親和性の高い言葉であることが分かる。
 もっとも、昨今では「物語を聞く」(〇)/「小説を聞く」(〇)のように、技術の発達によりイヤホンで「小説を聞く」という行為が可能となってきた。とはいえ、「物語を聞く」とはお婆ちゃんが子供に語りかける物語を聞くような、今現在紡がれていく物語を聞くような印象を受けるのに対し、「小説を聞く」とは、既に完成した「小説」のテクストを音声という形態によって聞く印象を受ける。
 扱うテクストを物語として分析するとはすなわち、このような語りかける人や語りかけられる人、その場面について分析する姿勢なのである。


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