理論編(2) 「語り手」と「作者」の違い(1) 国語教育における物語論の導入
理論編(1)をまとめると、作品を「物語」として捉えるとはすなわち、過去に行われたことを語り手がどのようにして聞き手に対して語り出すのか、という観点から作品を分析する姿勢である、ということになる。
ここで問題になるのは、「語り手」とはどのような概念であるのか、それは「作者」とどのように違うのか、という問題である。これは一見すると簡単な問題のようで難しい。国語教育において「語り手」という概念が導入されて久しいが、未だに理論的な背景を踏まえて「語り手」という語を使って分析することの出来る教員は少ないように思われる。「作者」をただ「語り手」という言葉に置き換えて用いているだけの例などが、その典型である。ましてや、中高生に「語り手」という概念を伝えることはなおさら難しい。私が授業をしていても、生徒達の作者への信仰の強さをひしひしと感じる。現場でどのように示していくのかも踏まえつつ、「語り手」と「作者」の違い、「語り手」という概念を導入することでどのような分析が可能になるのか、ということを見ていきたい。
まずは直観的で分かりやすく中高生に伝わりやすい例として、夏目漱石『吾輩は猫である』を取り上げてみよう。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」
とこの作品は語り出されていく。この場合、作者は『吾輩は猫である』という小説を執筆した夏目漱石である。それに対して、語り手は猫である「吾輩」である。すなわち、作者とは、実際に生身の人間として生きていた(生きている)作品を作った人であり、それに対して語り手とは、物語を語り出すという機能を果たす存在であると言える。
『吾輩は猫である』の場合、語り手と作者は混同されないように感じられる(「作者の意図」という問題に関わると混同が起きてくるだろうが、それについては次回)。それに対して、芥川龍之介『羅生門』の場合はどうであろうか。
「ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。」
とこの作品は語り出されていく。この場合、作者は『羅生門』という小説を執筆した芥川龍之介である。それに対して、語り手は誰なのであろうか。ここで、結局は「芥川龍之介」のことである、と考えてしまうと「作者」と「語り手」を混同することになる。
この場合、語り手は誰なのか、という問い方が正確ではない。正確には、語り手はこの作品を語り出すという機能を果たしている点において存在しているが、語り手が姿を表していないのである。語り手は誰か特定の人なのではなく、語り手は語り手として機能しているのみである。このように、語り手の存在がほとんど意識されない作品もある。
しかし、『羅生門』の場合、読み進めていくと次のように語られる。
「作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた」
この箇所が、生徒だけでなく多くの国語科教員も指導の上で混乱する場所である。この「作者」とは、「芥川龍之介」という生身の人間としての作者ではない。そのように考えてしまうと、生身の人間が作中に登場していることになってしまう。これは、『吾輩は猫である』において作中で活躍する「吾輩」が夏目漱石その人であると考えることが不自然であるのと同様である。
そうではなく、この箇所は語り手が自らを「作者」だと名告(なの)ることによって、語り手が姿をあらわしている場面だといえる。すなわち、語り手=作者であり、この作者とは芥川龍之介その人ではなく、この物語を語り出している存在なのである。
『羅生門』については、やや込み入った議論になってしまった。これだけの字数では解決できない問題も多い。一旦ここで留めて、次回は作者の意図、という論点に触れていく。
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