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理論編(1) 「物語」と「小説」の違い(2) 国語教育における物語論の導入

 次に辞書的な意味を確認すると良いだろう。学校で生徒が用いている学習用の国語辞典を引いてもらう。たとえば、『ベネッセ 表現読解 国語辞典』(ベネッセ、二〇〇三年)を引くと、以下のようにある。

小説
 文学の形式の一つ。人生のさまざまな姿や社会に起こる事件を、作者の想像力によって筋立て構成し、作中人物の心理などを通して描き出した散文体の作品。
物語
 ①昔から語り伝えられている話。
 ②文学の一形態。ある事件・人物の行動などを、人に語りかけるように叙述した散文作品。特に日本文学で、平安時代から室町時代にかけて作られた、仮名を用いた作品をいう。『竹取物語』『源氏物語』など。
 ③筋のある、まとまった事柄を話すこと。また、その内容。

 前回の語用例からも確認できるように、「物語」は「語り伝えられている」「人に語りかけるように叙述」されたものである。「物語」として捉えることは、「語られるもの」として作品を捉えるということである。
 加えて、「小説」という言葉には、「作者」が構成するもの、だという前提が含まれている。『吾輩は猫である』の「作者」は夏目漱石である、というように、「小説」を分析するという姿勢においては作者が誰であるか、ということが問題になることが多い。一方で、「平家物語」の「作者」は不明であり、琵琶法師によって口承で語り継がれたものだとされている。昔の物語であるから作者が不明である、というだけでなく、誰が「平家物語」の作者であるのかは語り継がなければならないほどの重要なものではなかった、という見方も出来るかもしれない。
 このことと関連することとして、分析において「作者の意図」を読み取ろうとするか否か、という姿勢に関わってくる(詳しくは、「語り手」と「作者」の違い、にて述べる予定)。太宰治『人間失格』を小説として分析する上では、作者の経歴と『人間失格』の主人公「大庭葉蔵」との比較を分析したり、この作品に込めた作者太宰の思いや意図、太宰の心理状態について論じたりしたくなる。
 一方で、『源氏物語』の作者は紫式部であるが、『源氏物語』を作者紫式部の思いや意図を考えながら読むだろうか。もちろん、そのような姿勢をとることはありうるだろうが、それはおそらくは『源氏物語』がどのように語られるかという、語り手の分析を通して初めて成立する試みであろう。換言すれば、生身の生きた作家「紫式部」を前提として、その思いを作品に読み取るというような、作品を「小説」として捉える読み方は行わないだろう。
 議論が少し先走ってしまったように感じられるが、簡潔にまとめると「物語」として作品を捉えるとは、それが誰によって書かれたかを問題とする分析ではなく、どのように語られているのか、を問題とする分析の仕方であるといえよう。

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