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障がい児が大人になった後にも残る「居場所」や「つながり」


子どもの知的障害が判明したとき「この子は孤独になるのではないか」と感じたのを覚えています。

言葉が苦手な僕の子どもを相手にしてくれる人は少なく、ましてや健常な子どもが友達になってくれるはずがない。

大人になっても友達ができず、僕ら両親がいなくなってしまったら1人きりになってしまうのではないかと思ったのです。



その心配は今のところはまだ徒労に終わっています。

高等支援学校を卒業した今でも何人かの友人と交流が続いており、それなりに居場所と呼べる場所もあるからです。

しかし、ここに至るまでの過程は、当初の期待とは少し違ったものでした。





子どもを孤独にさせないために家庭以外の居場所が必要だと思った僕は、放課後デイや障がい児向けのサークルなど、居場所になりそうなところへ子どもを連れていくようにしました。

しかし、母子通園や放課後デイなどのフォーマルなサービスは一時的な居場所や交流の場にならのですが、サービスが利用できなくなる年齢に達すると、その関係もぷっつりと切れてしまいます。

その場の縁でお母さん同士が仲良くなるケースは見かけるのですが、子ども同士のつながりが続くことはなく、少し期待していただけにがっかりしまいました。
(人によるのかもしれません)



障がい者のスポーツサークルにも参加したのですが、活動自体は楽しめたものの人とのつながりや居場所としての進展はほとんどみられませんでした。

そこにいた子ども達は、自分とレベルが近しい子と仲良よくなる傾向が伺え、僕の子どものように明らかにコミュニケーションが苦手な子どもは声をかけてもらうことも会話の中に入れてもらうこともほとんどありません。

サークルの一員としてあくまでも所属しているだけという印象で終わりました。







そんな僕の子どもが今もつながり続けているのは小中学校の支援学級や高等支援学校でできた友人たちです。

学校の中で長い時間をかけて互いを理解し、気が合う(一緒にいるのが嫌ではない)友だちだけが今もつながっています。

療育などの目的が具体化された教育場面ではなく、学校という長くてゆるい枠組みの中で自然発生的に芽生えたつながりだけが今も続いているのです。

言葉に不自由がある子どもが他者を理解し、理解されるためには、学校のようにゆるくて長い時間が必要だったのかもしれません。



だからといって母子通園や療育などつながりを求めて右往左往したことが無駄だったとは思いません。

それらの場所でいろいろな人間関係を経て、自分に合いそうな人と合わなさそうな人を判断する、不器用な子どもなりの物差しができたように思えるからです。







子ども時代にあったフォーマルな居場所との関係性は大人になると失われてしまい、残るのは個人的な人とのつながりだけです。

その人とのつながりもコントロールできるものではありません。

ただ、たくさんの人との出会いは、つながりの可能性を確実に押し広げます。

社会学者の古市憲寿さんは、とある番組で
「一緒に遊びたいと思った人にはビラを撒く感覚で声をかけるようにしている」
と言われていました。

反応を気にしすぎず声をかけ続ければ、その中の何人かとは遊ぶ機会が持てるからという理由だったと記憶しています。


気の合う人に出会える可能性は人それぞれですが、例えばその確率が40人に1人なら400人と会えば10人ほどいることになります。

僕の子どもも3ヶ所目の障がい者スポーツサークルにしてようやく居場所と呼べるような場所に出会いました。




他者とは共通項が少ない障がいがある子どもが人とつながる機会を生み出すためには「つながりは確率論だ」とあっさり割り切る気持ちが必要だと感じます。

そういう気持ちで参加した人や場の中から、先につながるものは自然に残っていくのです。




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