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命の尊厳を守るには

筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者さんの依頼を受けて殺害した医師2人が嘱託殺人容疑で逮捕された事件。

「尊厳死」議論も巻き起こす契機となったが、果たしてこれは尊厳死にあたるのか。そもそも、尊厳死は議論されるべき論点なのか。

私の意見としては、死に尊厳などないというのが結論である。したがって、「尊厳死」という概念があり得ない。

ALSのような治療困難な難病を抱える人が死を望むのはなぜなのか。

それは、生きても長くはないという絶望感に加え、難病を抱えて生きることの意味が見つからないという無力感なのではないか。

では、その絶望感や無力感を患者にもたらすのは何か。

それは難病そのものではない。

難病患者となった隣人を、難病患者としか見なくなった周りの者たちなのだ。

難病患者から「生きる希望」を奪うのは、難病ではなく社会だ。

「治る見込みもない難病を抱えて生きる価値はない」と切り捨てる社会だ。

私たち一人ひとりは、個人としての尊厳をもっている。それは難病患者となっても何ら変わりはない。個人としての尊厳は、常に「生きること」に紐づくべきなのだ。

れいわ新撰組選出の舩後靖彦参議院議員は、ALS患者となり、一度は死が頭をかすめながらも、ピアサポートに生きる道を見出し、現在に至るまで精力的に活動されている。

舩後さんと今回の事件の患者さんでは何が違うかというと、「生きる希望」を見つけられたか否かでしかない。

そして、難病の患者さんに「生きる希望」を示してあげることができるのは、その患者さんを個人として尊重する隣人に他ならない。

何もできないはずはない。
命あれば為せることは必ずある。
それを本人が、その隣人が信じることさえできれば、必ずある。

尊厳死の議論など必要ない。
「死ぬ権利」などあり得ない。

難病患者さんの「死にたい」は自殺願望などではない。希死念慮なのだ。生きる希望を見失っているだけなのだ。

見失っているだけで、どこかにある。必ず見つかる。仮に見つかる前に命尽きたとしても、その希望を最後まで抱くことがその方の生きる意味になる。その希望を最後まで抱いていけるよう支えることのみが、隣人のすべき唯一の手立てである。

いつも、いつまでも自分が隣人であるとは限らない。
隣で起こる事は常に我が事となり得る。

情けは人の為ならず。

隣人を死に至らしめる情けは、いずれ自らの首を締める。

隣人を生かす情けは、いずれ自らの生を救う。

「死ぬ権利」などない。

あるのは「生きる権利」のみである。

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末期の患者さんに施す「緩和ケア」と「尊厳死」、「安楽死」というまやかしを混同してはいけない。

「緩和ケア」は生きる権利を全うした患者さんの末期の苦しみを取り除くものである。

この違いのわからない者は、この件を議論することなかれ。

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この記事で言う「隣人」は、聖書の表現を参考にしているけれど、決して特定の宗教宗派を想定などしているわけではない。
表現として最もしっくりきたものを使っただけなので、あしからず。


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