生きる場所、存在する意味
「カタチある「場所」も、カタチない「居場所」も、人の心の写し鏡のようなもの」
…と、常々思ってきました。
「居場所」は、「記憶と経験の積み重ね」によって作られる、とても主観的なものなのではと。
そして過去の記憶は、様々な現実のカケラから、幾度となく「今」に還ってくるのです。
香り
肌触り
味
音
色
形…
感覚に触れる全てが、そのカケラたち。
誰一人として、その感覚に同じ記憶も経験も持っていません。
故に、
同じ場所・空間に対する認識も、似ていることはあれど異なることがほとんど。
それは同時に、人が誰しも「唯一無二の存在」であることの証(あかし)。
この世界で、
記憶と経験は、自分が「自分」という存在であることの無形の証明。
その時何に触れ、感じ、思ったか…
その積み重ねこそが「自分」である事の証なのではないかと想うのです。
もしも生きること・存在することに「理由」があるとするならば、自分自身で、「『自分』を証明し続けること」が、生きる理由なのかもしれません。
「わたしは、わたしだ!」と、
「唯一無二の自分」を生きること。
「自分」という命をただ生きること。
ですが、そう考えると…
記憶や経験の感覚を閉じると、「自分」という「存在」も「生きる意味」も、曖昧になっていくと想うのです。
今多くの若者が、無意識に、または意図的に感覚を閉じて行動する姿を目にします。
強制的に感覚を閉じる行為も…。
それは、
感覚を閉じて、
存在を消して、
その場所に溶け込むことで、
その場所の一部になることで…
自分の存在の意味、自分、居場所を、見出そうとしているようにも見えます。
とても逆説的ですが。
感覚を閉じなければ居られないほど、彼らの日常や記憶には、痛みが伴うのでしょう。
切なる願いは、
感覚を閉ざす必要のない世界。
今、大人の我々に何が出来るのでしょうか?
彼らが優しい記憶を積み重ねられるように。
やがてそれが、優しい居場所となるように。
そしてそこに、「存在する意味」を見出せるように。
私は「私にできること」を続けたいと想います。
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