有意であることで満足度を上げる

こんにちは。今日は「有意」について。

有意であり、無駄なこと

世間・周囲にとって無駄と思えることでも自分にとってはとても価値の有るものである。そんなケースは数え切れないほどあります。

では、世間から見た「無駄」という意見と、自分にとって「有意」であるという感覚のどちらを信じるべきなのでしょうかと問われると、まぁ、後者ですよね。

なぜなら、人間は本来自分勝手なものであり、純粋に社会のために生きているわけではないからです。

純粋に社会のために生きている、と自称する人は社会が変化したときに「これまで」に従うのか「これから」に従うのかの判断ができないのではないでしょうか。

そんなわけで、今回は「自分にとっての有意」について少し考えてみたいと思います。

他者貢献は自分の活力

人間が自分に意味があると感じる機会として多いのが「他者に貢献した時」ではないでしょうか。

特に自分としては負荷を感じていないのに他者貢献している、という感覚だと純粋にプラスの感情だけを味わうことができます。

思うに、他人に認められる、ということは人間の中でかなりレアなことなのではないでしょうか。

自分の中での評価は常に自分で行っているのに対し、他者に貢献し、しかもお礼を言われることは比較的レアリティが高いものです。

これは「社会貢献」にも同じことがいえますが、これは「他人のため・社会のために生きる」こととは違います。

私の中には貢献は自分がやっていることが相手の役に立つことであり、その根本には自分が自我に従って生きていることが前提にあります。「◯◯のために自分を活かす」と解釈できるでしょう。

しかし、「◯◯のために生きる」は全面的に相手に依存している状態ですから、相手の裏切りや、状況変更などに極めて弱いという特徴があります。

他者貢献はあくまでも自分のために行うこと、と意識しておくと、後者の考えにとらわれずに済む気がしますね。

「自己貢献」は可能か?

ところで「他者貢献」ができるなら他者の部分をすげ替えて「自己貢献」はできないのだろうか、ということも考えることができます。

「自己貢献」というとイメージが掴みづらいですが私はこれを「自己啓発」と似たものではないか、と考えています。

これは「自己啓発本」のようなノウハウを学ぶことも含みますが、どちらかというとそれに基づく「行動」全体を含むものだと思っています。

筋トレ・ウォーク・ランなどで自分の健康を維持すること、資格勉強でより広い他者貢献への能力を育むこと、メンタルヘルスを保つこと、いずれも自己への貢献といえる活動です。

「自己貢献」の場合、他者が介在することがないので、自分で自分を褒める、という思考法が必要になりますが、これこそ自分にとって「有意」な行動になります。

私にとっての「有意」

ここで最初の「有意」というテーマに戻ってきますと「他者貢献」「自己貢献」のどちらも私にとっては「有意」なことです。

つまり、一日の行動をこの2つのどちらかに分類して生活できれば「有意」な生活が送れる、ということになります。

これは意味付けがどっちつかずな状態=「貢献」が行われていない時間をなくすことを意味します。

多分そうすれば、少なくとも自分にとっては幸せな生活が送れるのではないか、と想像しています。

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