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挑戦するときにいくらの努力を賭けるか

こんにちは。今日は「自虐」「挑戦」について。

成功を望まない挑戦?

以前「過剰に反省の態度をとって自尊心を下げるのはダメ」という話をしましたが、まさにこれが「自虐」=自分を必要以上に責めることなんですよね。

表現する単語が見つかったところで、「自虐」目的の挑戦と「成長」目的の挑戦がある、ということについて書いていきたいと思います。

この2つの挑戦を分けるのは、成功すること・その結果得られるものを望むか否か、だと思います。成功を望まない挑戦、というものも世の中には存在します。

例えば、明日フルマラソンに行こう・まだ親しくない異性に告白してみよう、というものがそれに該当するでしょう。この場合、成功確率はほぼ0ですが「挑戦した」という称号は手に入ります。

ここで「称号」と言ったのは、これには経験が伴っていないからです。

確かに勢いでマラソンに出てつらい思いをしてギブアップしたことも経験といえなくはありませんが、そこには挑戦に際して行われた準備・努力の経験はありません。

成功していない以上それを誇る事はできず、努力していない以上自分を納得させることもできません。最終的には「やらなけりゃよかったよ」と数ヶ月言った後「これは自分にとって無理だった」と結論づけるかもしれません。

成功を望まない挑戦は、この「自分にとって無理だった」を得るための挑戦と言っても良いかもしれません。

「ここまではできる」と「ここまでしかできない」

成功を望み、努力を伴った挑戦は失敗しても「ここまではできた」と思えるものです。他方、成功を望まない挑戦は「ここまでしかできない」という諦めの力学を含みます。

「ここまではできる」と思えるということは達成の力学です。その先に進むも進まないも自由です。

しかし「ここまでしかできない」と諦めた先にもう一度挑戦するのは独力ではかなり厳しいのではないでしょうか。

つまり、成功を望まない挑戦をしてしまうと、自分の可能性を削り落とす自己否定だけしか得られないことにもなる、ということになります。

一つ厄介なのが、この2つを分ける基準は自分の感覚でしかないということです。客観的な指標はおそらく存在しません。

どれだけの「努力」を賭けるか

成功のための挑戦のためには努力が必要だと私は思います。ですが、挑戦という行動そのものは即席でできてしまうのもまた事実で、それが成功を望まない挑戦を生んでしまうこともあります。

大事なのはこの2つが両方「自分で可能」であることを知っておくことな気がします。

努力してもいい。しなくてもいい。ただし、努力すれば成功失敗時に得られるものが増え、しなければ失敗したときに大きく失うということです。

努力は時間やリソースを消費する代わりに、成功失敗双方にあるリスクを調整してくれるものではないか、と書いていて思いました。

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