シゲキガホシイ
女に手を引かれて歩きながら、俺は早く帰りたいと思ってしまう。
帰りたい場所は、この女の家ではなく、俺が生まれ育った世界。
数日前の帰宅途中、細い道への角を曲がったら、急にどしゃ降りの雨になった。
コンビニに逃げ込もうと、あわてて細い道を飛び出した俺の目の前にあったのは、見知らぬ景色だった。
派手なネオン看板の並ぶ通りを前に、俺は頭が真っ白になった。
雨に打たれて立ち尽くしていた俺に傘をさしかけたのが、今俺の手をひいているこの女、リュリュ。
リュリュに借りたタブレット端末で、ここがどこで今がいつなのかを調べた俺がたどりついた結論。
俺は異世界に来てしまった!
俺が住んでいる町とこの町の名前は同じなのに、鉄道の駅が一つ増えただけで、町の様子が大きく異なってしまったらしい。
そんなことはわかっても、元の世界に帰る方法がわからない俺は、仕方なくリュリュの世話になっている。
けれど、リュリュは異世界に来たという俺の主張を信じていない。
どしゃ降りの雨の中を傘もささずに立ち尽くし、異世界に来てしまったと言い出した俺のことはヤバいヤツだと思っている。
そして俺はリュリュのことを、刺激に飢えた女だと思っている。
そして今、俺がリュリュに手を引かれながら歩いているのは、はぐれたら二度と会えなくなりそうなほどの人込みの中。
リュリュの友人が働いている店に向かっているらしい。
さっきからすれ違う人と肩がぶつかるし、そもそもリュリュの友人とやらに会いたくもない俺は、どんどん気持ちが沈んでいく。
何度めかのため息がもれたとき、不意に空いているほうの腕を掴まれた。
と感じた直後、道を埋め尽くす人の群れが歪んだ。
何が起こったのかと考える間もなく、目の前から人の群れが消えていた。
「え?」
その声は、俺の腕を掴んでいる男が発した。
「え?」
と、俺。
「え? なに? ここどこ?」
そう言いながら、リュリュが俺の手を放した。
男からも解放され、俺は改めて周囲を見回す。
ここは……立体駐車場だ。車は見えないが。
「ごめんなさいぃ!」
大声で謝罪した男は頭を抱えてしゃがみこんだ。男の向こう側に、長い黒髪の女が立っている。
「突然、四人も消えたらさすがに騒ぎになるかも、ね」
黒髪の女は男を見下ろし、ため息まじりにそう言った。
「とっさで! ミユとはぐれちゃダメだと思ったし!」
男は勢いよく立ち上がり、黒髪の女に向かってわめいた。
「定休日のスポーツジムの立体駐車場を選んだのは褒めてあげる。誰もいないし、彼の通いなれた場所だものね」
理解できない会話を眺めていたら、黒髪の女が俺を見た。強い目だと感じた俺は、思わず後ずさった。
「四人のうち三人はあの世界の所属ではないから、騒ぎになっても都市伝説になるくらいでしょうね」
もしかして。
「ねえ、ここどこ?」
ツカツカとリュリュは黒髪の女に近づいた。ハイヒールを履いているリュリュが、黒髪の女を見下ろす。
「あの人が所属する世界」
「やっぱり、そうなんだな! 俺は帰ってきたんだ!」
俺は思わずガッツポーズをして飛び跳ねてしまった。
「あの人と手をつないでいたあなたを巻き込んでしまった。でも、すぐに帰してあげる」
「え、なに、異世界ってマジなんだ。なに、じゃあ、あいつは普通の地味男ってこと? ヤバい妄想男だと思ったから親切にしてやったのに」
リュリュの発言に、俺は冷静になった。黒髪の女のそばにいる男が、怪訝そうにリュリュを見ている。
「意図せず他の世界に行ってしまうなんてこと、信じられなくて当然」
「ねえ、あんたたちは他の世界に自由に行けるってことよね?」
リュリュはハッと気づいたように、黒髪の女の発言を遮って質問というか確認をした。
「ある程度は」
「じゃあ、あたしをヤバい世界に連れてって!」
「は?」
俺と男の声が重なった。黒髪の女は一瞬だけポカンとしていたが、唇をきゅっとひきしめて首を横に振った。
「ダメ。生まれた世界から離れることは、許されない。世界の境を越えてしまった者を元の世界に戻すことが、私たちの使命」
きっぱりと強い調子で言われて、リュリュは派手に舌打ちをした。
そして、俺たちに背を向けて歩き出した。一歩一歩ゆったりと、セリフを言いながら舞台上を歩く女優のように。
「毎日同じことの繰り返し。仲間とパーっとやっても楽しいことはすぐ終わっちゃう。で、また地味な毎日」
リュリュは外へ出るときはいつも派手に着飾る。けれど爪は短く、手の肌荒れを気にしている。
どんな事情があるか知らないけれど、リュリュなりに苦労しているのだろうとは感じている。
数メートル先で立ち止まったリュリュは、くるりとターンして黒髪の女と向き合った。
「みんながそうだからって、あたしもガマンしなきゃいけない理由にはならないよね?」
「そうね。でも私は、あなたにどんな事情があろうと、界境を越えることは許さない」
凛としている、というのは、この黒髪の女に似合う言葉なんだろうな。
「あーもう! いやな女ね!」
リュリュが髪をかきまわす。
「ミユはいやな女じゃない。俺の絶対だからね。ミユを貶すのは俺が許さない。さっさと帰してやるよ」
黙っていた男が不機嫌を隠さずに言い放ち、リュリュに近づく。
「いやよ!」
言い捨てて、リュリュは走りだした。が、すぐに立ち止まった。
「刺激に満ちた世界へ、お連れしましょう」
影から現れた黒づくめの女が、リュリュに向かって手を差し出した。
リュリュの手がその女の手と触れた瞬間、二人の姿が歪み、消えた。
ダッシュで駆け寄った男が伸ばした腕は、わずかに届かなかった。
「くそっ」
「今日のヒイロ、かっこ悪い……」
黒髪の女の一言に、男が頭を抱えてしゃがみこんだ。
「ごめんなさいぃぃぃ!」
「……油断したのは私も同じ。彼を連れ戻したのだから充分」
二人同時に俺を見たから、俺は姿勢を正した。
「よくわからないけど、帰ってこれたならよかったです。ありがとうございました」
深くお辞儀する。
「はい、どういたしまして。すぐに帰してあげられなかったことは、ごめんなさい」
顔を上げると、黒髪の女が頭を下げていて、男はあわてた様子で女に倣った。
「いえ、いや、もう、途方に暮れていたので、本当にありがとうございました」
「だよな」
男がそう言って、にやりと笑った。
「こら」
「え?」
「言い方」
二人のやりとりは、仲の良い姉と弟のようで、俺は笑ってしまった。
それに気づいた黒髪の女が、微笑を俺に見せた。男のほうはふいっとそっぽを向いてしまった。
「……駐車場のゲートをくぐるかまたぐかすれば、問題なく外へ出られます。では、お気をつけて」
「はい。ありがとうございました」
俺は立体駐車場の出口に向かって歩きだした。
けれど、数歩で立ち止まり振り返った。
「あの、リュリュは、あの女はどうなるんですか?」
勘違いしていたとしても、リュリュに親切にしてもらった恩は感じている。
「見つけて、所属する世界へ連れて行きます」
「ホントの俺は超絶強いから、まかせとけ」
自慢げに言った男に、黒髪の女が笑をこぼした。まかせるしかないと理解した俺の口角も上がった。
「それじゃあ、さようなら」
そう言って踵を返した俺は、再び歩き出す。今度は振り返らない。
立体駐車場を出ると、見慣れた景色が広がっていた。
帰ってきたんだと実感しながら、俺は大きく伸びをして深呼吸をした。
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