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わかんないくらいずっと前から〈前編〉

 バイト先から駅までは歩道橋を渡るのが近道だけれど、高い所が怖いボクは、歩道橋を歩くのも嫌だ。
 でも今夜は遅くなったから、歩道橋を渡ることにする。
 階段を上りきって、向こう岸を見やる。誰もいないけれど橋が揺れている気がする。いや、気のせいだ、がんばれボク。
「死にたい」
 口癖になっている言葉がため息と一緒にこぼれた。良くないとは思っているけれど、口から出てしまう。
「じゃあ、死ぬ?」
「え?」
 左側から声が聞こえて、左肩をつかまれて、思わず振り向いた。ピンク色の髪の人が見えて、とたん、その人がぐにゃりととろけるように歪んで、すぐに元に戻った。
 なにが起こった?
 周りを見る。
 ここは歩道橋の上じゃない。倉庫の中?
 ふいに息苦しさを感じて、ボクは肺にたまっていた空気を吐き出して、吸った。呼吸すら忘れるほど、ボクは驚いていたんだ。
 あ、やばい。
 呼吸を繰り返していたら、荒く浅い呼吸になっていて、ボクは膝をついた。
 過呼吸、だ。
 ボクは地面に転がり、胸をおさえた。
 ゆっくり、落ち着いて、呼吸を、ゆっくりと。
 自分に言い聞かせる。
「なに、こいつ、病気?」
 ボクの目の前に、ごついブーツが現れた。だから、ボクは仰ぎ見た。
 あれ、カツヒコ?
 似てるけど、別人だよな。
 だって、カツヒコは去年、死んだんだから。
「過換気症候群というやつだな。死なないけれど苦しいらしい」
 声のしたほうに目を向けると、ピンク色の髪の人だ。歩道橋で見たのは、この人か。
「オレ、こいつ、知ってる。でもそいつは去年、死んだんだ」
 カツヒコに似ている人が、そう言って、遠ざかった。その人は気味悪そうにボクを見ていて、たぶんボクも気味悪そうにこの人を見ているんだろう。
「別の世界に生きる知人かもしれないね。君の世界では死んでいても、別の世界だと生きていることがある。逆もある」
「……こいつ、別の世界のタカネってことか」
 ボクの名前はタカネだ。それじゃあ、この人は別の世界のカツヒコ?
「なあ、お前の世界にも俺はいる? そいつは、やっぱり、イライラしてる?」
 呼吸が落ち着いてきたけど、まだ動きたくないボクは地面に転がったまま。
「よく怒ってた。机や椅子を蹴ったり、教室から出て行ったり」
 ゆっくり喋ったボクの声はちょっとかすれていた。
「別の世界でも俺は俺なんだな」
「君の知ってるボクは、死んだ?」
 カツヒコは離れたままでしゃがんで、そこからボクを見てうすく笑った。
「ああ、車にひかれたんだ」
 自殺じゃないんだ。と、ボクは思った。
「ボクの知ってるカツヒコも、交通事故で死んだよ、去年」
 かすれたままの声でそう言うと、カツヒコの目が丸くなった。
 それから、カツヒコは勢いよく立ち上がって転がっていた木箱を蹴った。木箱が壁にぶつかり壊れる派手な音に、ボクの体はびくりと震えた。
 しびれている手に無理やり力をこめて、ボクはどうにか上体を起こした。立ち上がる元気はまだないけれど、転がったままでいるよりは周りが見えるはず。
「その事故で、あっちではカツヒコが、こっちではタカネが死んだ、のかもしれないね」
 ピンク色の髪の人はそう言ってボクを見て、ひょいと肩をすくめた。
「そうかもな、同じ団地だもんな」
 吐き捨てるような言い方をして、カツヒコは小さく地面を蹴った。
 ボクとカツヒコは別々の棟だけれど、小学校の集団登校は同じグループだった。駅やスーパーも、あの団地に住む人ならばほぼ同じ道を行く。
 だから、あの交通事故の被害者がカツヒコじゃなくてボクだった、なんてことはありえると思う。
「じゃあさ、カツヒコが死ねばいいって言う『みんな』にタカネは含まれてるんだ?」
「ああ。タカネも俺をイライラさせる」
「ふうん。じゃ、最初の相手にはちょうどいいんじゃない」
「……それもそうか」
 二人の目がボクに向けられた。ボクと目が合ったカツヒコの喉がごくりと動いた、ように見えた。
 どうやら、ボクはカツヒコに殺されるらしい。そのために、ピンク色の髪の人はボクをここへ連れてきたんだろう。
 ピンク色の髪の人がカツヒコに拳銃を渡しながら、こう言った。
「死にたいらしいよ、彼」
 それを聴いたカツヒコが驚いたようだったのは、ボクの気のせいだろうか。
「願いを叶えてやるんだから動くなよ、タカネ」
 そう言うと、カツヒコは体ごとボクを向いた。それから重たそうに拳銃を持ち上げる。
 ボクはこれからカツヒコに殺されるというのに、現実感がない。逃げなきゃとか抵抗する気はまったくなくて、ただカツヒコを見ている。
 目の前に死んだはずのカツヒコがいるから、夢をみているのだと思っているのだろうか、ボクは。
 そのカツヒコの手は震えて、顔はひきつっている。
「みんな死ねばいい。俺は悪くない」
 低いつぶやきは、カツヒコが発した。
 ようやく持ち上げられた銃口が、こちらを向いた。その黒い小さな穴が怖くて、ボクは目をぎゅっと閉じた。

 けれど、銃声は聞こえなかった。

「見ぃつけた!」
 のんきな言葉が、鋭利に場の空気を切り裂いた。
 目を開けると、どこから入ってきたのかわからないけれど、三人いた。ごつい体格のお兄さんと、ひょろっとした同じ年くらいのやつと、髪の長いお姉さん。
「グッドラック、カツヒコ」
 ピンク色の髪の人はそう言って、忽然と消えた。
「な、なんで……!」
 なんで一人で逃げるんだ、と、カツヒコは言いたかったに違いない。
「物騒なもの持ってるね」
 お姉さんがカツヒコを見て言った。
「俺が」
 ごつい体格のお兄さんが、カツヒコに近づいていく。
「く、来るな!」
 カツヒコは怒鳴って、拳銃をお兄さんに向けた。
「大丈夫?」
 言いながら、お姉さんはボクの手の届かないところに立って、ボクを見ている。膝に手を当てて、目線をボクに合わせようとしてる。
 お姉さんのそばにはひょろっとしたやつ(ひょろ男と呼ぶことにする)が立って、怖い目でボクを見下ろして、不機嫌そうな態度でこう訊いてきた。
「おまえたちは、仲間なのか?」
「違う、と思う」
「思う、って」
「さっき、会ったばっかで。カツヒコは去年死んだのに、別の世界のカツヒコなんだって」
 あれ、また過呼吸、なりそう。
「信じる。だから、ゆっくりと呼吸しましょう」
「あ、ミユ!」
 お姉さんが駆け寄ってきて、ボクの隣にしゃがんだ。
「ゆっくり、ゆっくり」
 言いながら、片手はボクの背中をさすって、片手はボクの手を握ってくれた。
 指が細くて、やわらかくて温かい手。
 ボクの呼吸はすっと落ち着いた。
「ありがとう、ございます」
「なんで! そいつには優しくするんだよ!」
 カツヒコの怒鳴り声に、ボクはびっくりしてカツヒコを探した。カツヒコは壁まで後退してもまだ、拳銃をお兄さんに向けていた。
「物騒なもの持ってるか持ってないかの違い」
 ひょろ男が、迷いのない足どりでカツヒコに近づいていく。
「もう、みんな、死ね!」
 カツヒコが引き鉄を引いた、そう思ってボクはぎゅっと目を閉じた。

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