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異世界に行ったら ~前編~


 目を開けて目の前に理想そのものがいたから、私は彼以外を見たくなくなった。

「おはよう、ハニー」
「おはよう、ダーリン」
 大丈夫、今朝も彼は私の隣にいる。
そのことに安心してから、彼のための朝食の準備を始める。彼が大好きな食パン、彼が大好きな紅茶、彼が大好きなジャム、彼が大好きなドレッシングをかけたサラダを用意する。彼の大好きな焼き加減をめざし、トースターからは目を離さない。
「目、悪くなっちゃうよ?」
 彼は優しく言ってくれるけれど、彼に焦げたパンを出すことも、焼きが足りないパンを出すことも、私はしたくないのだ。
「どんなに目が悪くなっても、ダーリンだけは見えるからいいの」
 この返しも毎朝のこと。私は本心から言っている。
 完璧な焼き具合のトーストにジャムを塗ってお皿に置くと、彼はいただきますと言って食べ始める。
「おいしいよ、ハニー。いつもありがとう」
「うれしい。晩御飯もがんばるね」
「うん、楽しみだな」
 彼のにこにこ笑顔がかわいくて、私も笑顔になる。
 まるで、夢みたいな毎日。

 彼を送り出すと、私はとたんにさみしくなる。
さみしさのあまり、洗濯機に入れる前の彼の服に鼻を押し付けて、彼の香りで自分を満たす。ひとしきり嗅いでから洗濯機に丁寧に入れる。服も一緒にいてほしいので、自分の洗濯物も洗濯機へ、こちらは放り込む。スイッチオン。
 掃除機をかけようとしたところへ、呼び鈴が鳴った。
 誰だろう。私はドアの前に移動し、
「はい、どちらさまですか?」
 おそるおそる言った。
「牧山さん、宅配便です」
 牧山というのは彼の苗字だから、彼宛に荷物が届いたということだ。彼からは何も聞いていないから、通販の類ではなさそう。
「はーい」
 チェーンをはずして、カギを開ける。ゆっくりとドアを開けると、宅配業者のお兄さんが笑顔で言った。
「重いので、中に運びますね」
 有無を言わさぬ圧を感じて、私は思わず道を譲った。宅配業者のお兄さんは荷物を上がり框に置いて、伝票を私に差し出した。
「こちらにサインください」
「は、はい」
 受け取ろうとしたら、手をつかまれた。
「……!」
 反射的に手を引いたけれど、動かない。逃げられない。逃げなきゃ。
「やっと見つけましたぁ。自分のいた世界に戻りましょうねぇ」
 宅配業者のお兄さんを装った謎の男は、人のよさそうなさわやかな笑顔でそう言った。
 夢からさめる日はくるのだ、やはり。

 男とテーブルをはさんで向かい合う。
「はじめましてぇ、私のことはリディとお呼びください」
 リディ。
「日本人ですよね?」
「あだ名ですぅ。それに外見だけで国籍を問うのは差別ですよぉ」
 なんだ、こいつ。柔らかな口調でキツイことを言ったぞ。正論だろうけれど、初対面なんだからオブラートに包んだ言い方はできないのだろうか。
「さて、帰ってくれますよねぇ。ていうかぁ、断る自由はあなたにはないんですけどねぇ」
 私を不機嫌にしておいて、リディは笑顔だ。というか、笑顔で感情を隠しているみたいで、ニセモノっぽい。
「帰りたくない、って言ったら?」
「無理やり連行することになりますねぇ。逃げても無駄ですよぉ」
「私はここで一か月、暮らしています。今日まで見つからなかったってことですよね。つまり、私は逃げることも可能ではないですか」
 わざと嫌味な口調で言ったけれど、リディの表情は変わらず笑顔。
「手掛かりのない状態で探すのとぉ、顔も声もわかっている状態で探すのとでは違いますぅ。こうしてお会いしたことでぇ、あなたに発信機をつけたも同然なのですぅ」
 なるほど。とはいえ、私に逃げる気などない。
「わかりました。逃げないので、時間をください」
 私はリディに頭を下げた。
「では、真夜中にお迎えにあがりますねぇ」
 あっさりと言って、リディは立ち上がり、持ってきた荷物を持って出て行った。

 掃除機をかける。洗濯物を干す。お昼ご飯を用意して食べる。彼が貸してくれた本を開く。洗濯物をたたんで片付ける。彼と食べる夕食を用意する。
何をしていても頭に浮かぶのは、彼と過ごした一か月のこと。
 一か月前の朝、目を覚ましたら、私の目の前に彼がいた。私が理想として描いていた登場人物がリアルに存在したらこんな顔よね、と思った。
 彼は私の顔をのぞき込んでいて、私と目が合うとぱっと明るい笑顔になって、
「目が覚めたんだね! 痛いところはない? おなかすいてるよね? 何が食べたい?」
 まだぼおっとしている私に、矢継ぎ早に言葉をかけてきた。
 前の晩、私は同人誌の原稿を仕上げて、そのままベッドに転がり込んだ、はずで。
 彼が出してくれたミルクティーを飲みながら、そのことをぼそぼそと告げると、彼は驚くべきことを言った。
「朝まで飲み会して始発で帰ってきたら、君が僕のベッドに寝ていたんだよ」
 信じることなどできず、私は自分が寝ていたベッドを見、窓に目を向けた。
 窓から見える景色に見覚えがあるどころではない。私の部屋から見える景色、そのものなのだ。
 彼に住所を尋ねると、私が暮らしている部屋の住所と、部屋番号まで一致した。
「どういうこと……」
 混乱して泣き出した私を、彼は優しく抱きしめた。初対面の男性に抱きしめられた私は、驚きのあまり涙がとまった。
「どういうことかわかるまで、ここにいたらいいよ」
 こうして、私は彼と暮らし始めた。
 私の記憶喪失を疑ったけれど、私は自分の名前も住所も電話番号も親の名前も通っている大学の名前も所属している同人誌サークルの名前も、しっかりと覚えている。
 次にタイムスリップを疑ったけれど、彼の携帯電話が示す日付と、私の記憶から導き出す日付は一致していた。
 テレビをつけると、出演しているのは私の知らない芸能人ばかり。彼に言って、私が好きなアイドルの名前をインターネットで検索してもらったけれどヒットしなかった。
 よく似た別世界に、私は来た。
 それが私と彼の出した答えだ。
「ただいま」
 彼の声に我に返る。
「おかえりなさい」
 笑顔で言ったつもりだったけれど、彼は眉をひそめて、私の額に手を当てた。
「どうしたの? 何かあった?」
 私はガマンできなくて、彼に抱きついた。彼は黙って、背中をさすってくれる。
 言わなきゃ。
「私、もとの場所に戻ることになった」
 言いながら、泣いていた。
 このまま彼のそばにいたいと、私は思ってしまった。
 逃げよう。もし彼がそう言ったら、私は一緒に逃げることを選ぶ。
「そう、そっか。よかった、ね」
 彼がそう言ったから、私は泣き止んで、彼の顔を見た。
 彼が逃げようと言いださない人だと私は知っている。それでも、彼の顔がさみしそうに見えたのは、私の願望だ。
「だから、今夜はマーボー豆腐でお祝いしよ?」
「うん」
 私は笑顔を作ることに成功しただろうか。
 彼の大好きなマーボー豆腐で、彼との最後の晩餐をした。

 ベッドを背もたれにして、二人、並んで座ってる。
 マーボー豆腐を食べながら、食器を片付けながら、一か月の間にあった二人のことを話していたけれど、真夜中が近くなったことに気づいてからは、黙って座ってる。
 私は帰りたくないと言ってしまいそうで、言ったら彼を困らせるから、黙っている。
「こんばんはぁ」
 声がしたと思って顔を上げたら、窓際にリディが立っていた。服装は宅配業者のお兄さんから、黒のスーツ姿に変わっている。
「帰りましょうかぁ」
 感情がわからない笑顔で言って、リディは私に向かって手を差し出した。
 私は無言で立ち上がり、歩みだそうとした。
「ありがとう、楽しかったよ」
 そう言われて振り返ると、彼は座ったまま私を見上げていて、目が合った。
「私こそ、ありがとう」
 やっとのことで言えた。泣きだしそうなのをこらえる。
「さようなら」
 言った彼は笑顔だった。私が大好きなやわらかな笑顔。
 私も笑顔をつくってうなずいた。声を出したら泣きそうだから。
「さ、どうぞ」
 リディにうながされ、私はその手に自分の手を重ねた。
 さようなら、私の理想のダーリン。

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